ミルトスの木かげで 第17回 恵みの御座
中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。
しばらく前になるが、教会からある祈りのリクエストのメールが来た。
それは、うちの教会のある夫妻とその娘のために……、というものだった。この夫妻は、前年、中国の孤児院から一歳の女の子を養子縁組にした。中国に女の子を引き取りに行く前に、皆で彼らのために祈ったのだが、そのとき、この女の子は何らかの障がいを負っているという話をしていた。多分どんな障がいなのかも説明していたと思うのだが、英語で病気の説明をされても私にはピンとこないので、具体的にどういう問題なのか分からなかった。
送られてきたメールを見て分かったのは、その女の子は、直腸や肛門がちゃんと発達しないままに生まれ、現在、簡易な人工肛門をつけている、ということだった。本来なら、その後、何度かに分けて手術をすべきなのだが、中国の孤児院はそこまでしてあげられなかった。そこでこの夫妻は、その子を養子縁組にし、わが子としてアメリカに連れてきて、わが子として自分の保険で治療を受けさせてあげることにしたのだ。翌日、手術のために他州に行くので、祈っていてくださいというメールだった。そのことを知り、私はただただ驚いた。何という愛だろう! その女の子は、この夫婦に引き取られたことにより、まさに新しい人生、新しいいのちを与えられるのだ。身体的にも、霊的にも。
* * *
アメリカでは養子縁組は珍しくない。それでも、養子にするなら健康な子どもを希望するのがふつうだと思う。それなのに、わざわざ大手術が必要になる子をそうと分かっていて選ぶなんて。これほどまでに、イエスさまが私たちになさってくださったことを体現することがあるだろうか。私は本当に驚いた。私なら、絶対にできない。
実は、この祈りのリクエストがきた日の私は、とても落ち込んでいた。悲しくて、不安で、ぼろぼろな気持ちで泣きながら祈っていた。昼間中、一人でずっと祈っていて、ようやく立ち上がってパソコンに向かったとき、そのメールが入っているのに気づいたのだ。そして彼らの状況を知り、吹き飛ばされたような気持ちになった。彼らの人生、彼らの選択の中に生きて働いておられる偉大なる神、大いなるあわれみに満ちた神の力を見た気がした。
そのとき、心に主の語りかけを感じた。
「自己憐憫から抜け出しなさい」
それは、「あなたの痛みなど大したことはない。あなたよりももっと大変な思いをしている人たちがいるのだよ」と言われたのではなく。そうではなくて、「あなたが自分で自分をあわれんだところで、どうなるのか? それよりも、わたしにあなたのことをあわれませてごらん。わたしがあなたをあわれむときに何が起こるか、それを見たいとは思わないかい? 自己憐憫から抜け出しなさい。わたしがあなたをあわれむから」そのように心に感じたのだ。
そして、次々とみことばが与えられた。
「主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます」(詩篇145・14) 「また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。 すべて主を愛する者は主が守られる」(同145・19、20)
「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28・20)
そうだ、主ご自身が、「わたしが救う」「わたしが守る」「わたしが起こす」「わたしがともにいる」とおっしゃってくださっているではないか! 私がここでイジイジしていてどうする! このメールにある夫婦が、こんな困難なことをわざわざ選び取ることを可能にした、愛とあわれみに満ちた偉大なる神と同じお方が、私の神ではないか!
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4・16)
この夫婦が立ち向かっているものに比べたら、私の試練などちっぽけだ、大したことはない、と思ったのではない。それは私にとっては充分厳しいものだけれど、主ご自身がともにおられるのだから、自分であわれんでいないで、神のあわれみにすがろうではないか、そう思ったのだ。そう思ったら、祈ることへの大胆な希望も与えられた。思いやりに満ちた、偉大なる大祭司であるイエスさまが、私たちのためにとりなし、助けてくださるのだ! このお方にすがろう。このお方に力をいただこう。そして、このお方とともに一歩を踏み出そう……。
この原稿を用意しながらも、この大祭司のあわれみととりなしを、必要としている方たちが今どこかにおられることを思う。私たちが皆、恵みの御座に大胆に近づいて、このお方に重荷を委ねることができますように。