ミルトスの木かげで 第20回 教会に「安全ではない人」がいたら?(前編)
中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。
昨年秋のこと、「『安全な人』と『安全ではない人』」(本誌二〇一二年六月号掲載)という私の文章をお読みくださったとある牧師先生から、ご質問のメールをいただいた。私はその文章で次のように書いた。
「残念なことだが、世の中には自己中心的な人がいる。つまり、未成熟な人だ。幼い子どもが自分の視点からでしか物事を見られないように、大人になっても、自分の願望や都合や利益を基準にしてしか、物事を考えられないのだ。そういう人と付き合っていると、最初はよくても、だんだんと『おや?』と思わされる場面に遭遇する。その人の人格的未熟さや身勝手さが、言動の端々からにじみ出てくるのだろう。クリスチャンの臨床心理学者ヘンリー・クラウドとジョン・タウンゼントは、そういう人たちを『安全ではない人』と呼んだ。安全ではない人との間では、心を通わせ、互いの成長を促すような深い人格的関係を構築していくのは難しい」メールをくださった先生は、教会にも時折「安全ではない人」がいて、そのような人たちとの間にうまく境界線が引けず、困っておられるとのことだった。
線を引こうとすると、愛がないとか、冷たいとか、さらには「私の言うことを聞いてくれない」とほかの教会員に言いふらし、味方につけようとする。奉仕には熱心で、能力もあるものの、自分の思い通りにならないと怒りだし、何事も自分でコントロールしたがる……。
教会として、また牧師として、そういう人にはどのように対応したらいいでしょうか、とおっしゃるこの先生の悩みは、おそらく多くの教会、また教会以外の共同体の人間関係でも、しばしば見られる問題であるように思う。そこで、この先生の許可をいただき、私のお返事を、若干の修正を加え、こちらにも掲載させていただくことにした。
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お返事が大変遅くなり、申し訳ございません。先生のメールを拝見してから、しばらく祈っておりました。
先生のおっしゃるような方は、教会にもたしかにおられると思います。実際、ほかの牧師先生がたから、そういうお話を伺うこともあります。おっしゃるように、「パーソナリティー障害」とおぼしき人たちへの対応はとても難しいと思います。先生のご苦労や痛みをお察しいたします。私は臨床心理士ではないため、これと言った確実な対応策は分からないのですが、一連の『境界線』に関する本を翻訳しながら学んだことを、少しお話しさせていただきますね。
「安全ではない人」に対応するには、まず、自分自身が「安全な人たち」との交わりの中にいることが大切です。
先生のおっしゃるとおり、「安全ではない人」には境界線を引く必要があります。しかし境界線を引こうとすると、少なくとも一時的に相手との関係が悪化し、相手からなじられたり、攻撃されたりすることも珍しくありません。そうすると自分もつらくなって、せっかく引きかけた境界線を、取り下げてしまいたくなります。
そういうとき、その痛みに寄り添い、自分が行おうとしている、なすべき正しいことの意義を理解してくれる人たちのサポートがあるなら、頑張り続けることができます。また、自分の境界線の引き方が適切であるかどうか、それらの人たちからフィードバックをもらうこともできます。
先生のようなケースの場合、教会外の人たち、例えば、信頼できる牧師仲間や教会外の成熟した信仰の友やメンター(指導者、理解者、支援者)のような方たちとの交わりがあると望ましいかと思います。というのも、同じ教会の人に「安全ではない」教会員のことを相談したならば、教会内に派閥のようなものを生むことになったり、教会員に関することを別の教会員とゴシップすることになってしまいかねないからです。
「パーソナリティー障害」は、大うつ病や双極性障害、統合失調症のような投薬治療が有効な精神疾患というよりも、未成熟なたましいのまま大人になってしまった人、それゆえに、神様が本来意図している状態から外れた方向にその人の「霊」が形成されてしまった人、とも言えるのではないかと思っています(パーソナリティー障害と思われる人が、うつなどを併発している場合もあるでしょうが)。ですから、牧会で「安全ではない人」に対応するにあたっての最終的なゴールは、歪んで形成されてしまったその人の霊が、キリストのかたちに再形成されるのを助けること、と考えると良いのではないでしょうか。その人から迷惑を被らないようにするために境界線を引くのではなく、その人の成長を助ける枠組みを提供するために引くのです。
(次号に続く)