ミルトスの木かげで 第22回 すべての真理は主のもの
中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。
夕べ、大学で心理学を学んでいる次女から「スティーブン・ピンカーが書いた記事を読んで、なるほどと思ったのだけど、クリスチャンの立場からこれを論駁することはできるかなぁ」とメールが来た。
スティーブン・ピンカーとは、米国の著名な認知心理学者で、近年では進化心理学者としても知られている。次女が読んだのは、五年前のニューヨーク・タイムズに掲載された「道徳本能(The Moral Instinct)」という記事だった。
キリスト者はよく、人間がほかの動物とは異なる存在として、神の似姿に造られたことの証しの一つは〝道徳心”だと考える。しかしピンカーは、わざわざ神の概念を持ち出さなくても、道徳性も生物学的に捉えることができ、進化心理学の立場から十分に説明できると論じていた。次女は、この記事には説得力があり、理にかなっていると感じたものの、キリスト者としてそれを受け入れていいのか、葛藤しているようだった。
大学で学ぶ若者にとって、自分が学んでいることが信仰と相容れない(と感じられる)ときはどうすればいいのか、というのは切実な問題だ。神を排除する世界観に染まってほしくはないが、だからといって、信仰とは理性や知性を犠牲にしないといけないものだ、とも思ってほしくない。
神は、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22・37)と言われたではないか。
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世の中にはものすごく頭の良い人たちがいて、その中にはキリスト者もいればそうでない人もいる。キリスト教に敵意を燃やす無神論者さえいる。しかし、キリスト者であってもなくても、その研究者が人類や社会に貢献するために真摯に真理を追究しているのであれば、その人が見出すものは、究極的には神を証しすることになるはずだと思う。
もちろん中には、キリスト者に嫌気がさして、信仰をこきおろし、論駁するために本を書く学者もいる。だがそれはあくまでも「神を信じない」というその人の選択・信念であり、それを変えようと私たちが躍起になる必要はない。
一般に、「超自然的なこと=神」「自然なこと=神ではない」と考えがちだけれど、実はそうではないのだ。神は秩序の神であり、創造の初めに自然法則やそのほかの秩序も造られた。そして世界は神が定められた法則と機能に従って動いている。自然それ自体が、神の御手の業なのである。時には、特別な目的をもって、神がご自身の法則を曲げて、この世に介入してこられることもあるだろう。いわゆる「奇跡」だ。しかし、日常生活の中で「奇跡だ」と思うことの多くは、単に私たちがその背後にあるメカニズム(神が定められた秩序や法則)を知らない、というだけではないだろうか。自分が知らないだけかもしれないし、現時点では人間にまだ明らかにされていないのかもしれない。
だから、「奇跡ではない」とは、決して、「神はなさらなかった」「神はいない」という意味ではないし、「科学的」ということも、「神が不在」であるという証明ではない。
神の素晴らしさを知り、それを讃えるのに、超自然的な奇跡は必要ない。自然そのものが、私たちの理解と想像を超えた大いなる神の存在証明だからだ。個人的には、私は生物学的進化もその範疇に入ると思っている。「超自然的」でなければ神の御業ではないかのように考えるなら、それはむしろ、神の造られた驚くべき世界と秩序に対する冒涜でさえあるようにも思う。
たとえば、母の胎の中でいのちが生まれ、胎児が成長する様も、聖書は神がそれを組み立てたと言ったが、今や科学はそのプロセスをかなり詳細に説明できる。しかしだからといって、神がそのプロセスを定め、導かれ、ゆえに神秘的で尊いものであることに何ら変わりはない。信仰者にとっては、ますます神の御業の偉大さ、素晴らしさが際立つだけだ。
私は次女に言った。神様は科学よりも人間の学問よりも高く大きいお方で、すべての真理は、主から出た主のものであり、究極的には主を指し示すものだから、真理を追究することや、誠実に真理を追究しようとしている人たちのことを恐れたり、論駁しなければと身構えたりする必要はないよ、と。自分の学ぶことが神様の否定につながるのではないかと心配せずに、心を込めて思いきり勉強しなさい、キリスト者でない人の研究にもよく耳を傾けなさい、と。研究者がキリスト者であろうとなかろうと、その説明の中に神を入れていようといまいと、それが真理であるなら、私たちはそれを喜び、ますます主を知り、主を讃えることができるのだから。主に栄光あれ!