ミルトスの木かげで 第24回 神の大きなご計画の中で

中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。

長女がこの六月に大学を卒業した。就職先は決まっていないのだが(日本と同じく米国も就職難)、音楽を専攻した彼女は、もう一年大学に戻って教職課程を取り、教育実習をするらしい。
わが家は、子どもの進路に関してはかなり放任である。手伝ってあげたいのはやまやまなのだが、時代的にも文化的にも、親が経験してきたものと子どもが経験しているものがまったく違うので、あまり口出しをせず、助けを求められたときだけ助けるというスタンスでやってきた。大学受験も就職もしかりだ。その代わり、普段から親子でよく会話をし、互いにどんな価値観で何を考えて行動しているのか、意思の疎通には努めるようにしている。
とはいえ、次女の大学受験のときは親も試された。〝我が道を行く”タイプの次女は、友人たちが五~十校受験する中、滑り止めなしの二校しか受験しなかった。両方落ちたらどうするつもりなのかと私は不安を覚えたが、本人が決めたとおりにさせる以外なかった。
自分が何を恐れ、どこで痛みを感じているのかを内省すると、主が私の何を取り扱おうとされているのかが見えてくる。このときは、「援助」という名のもとに、親の納得できる方向に娘の人生を誘導したがっている私の思いを示された。私のうちに、自分の成長過程で刷り込まれてきた価値観があり、子育ての中でそれがどうしても頭を持ち上げてくるのだ。しかし、主の価値観、主の願いにそぐわないものは、一つひとつ手放し、砕かれていくしかなかった。
子を思う親の想いは、主が与えてくださった尊いものだとは思うが、その愛には、堕落によってゆがめられた肉の願いが混入していることもあるだろう。そこから聖められ、主からお預かりしている子どもを養育させていただいている者として、ただ主に忠実であれますようにと祈らされた。

*     *     *

一年ほど前のことだが、夫が子どもたちにこう言ったことがあった。「君たちの人生は、もっと大きなものの一部なんだよ」。これが、妙に私の心に響き、以来ずっと思いを巡らしている。
完成したジグソーパズルの絵は美しいが、その中のピース一つだけを見るなら、何のことだか分からない。
中には一色だけの単調で退屈なピースもあるだろうし、意味不明の柄のものもあるだろう。そうかと思えば、一目見ればそれがどの部分なのかわかる華やかなピースもあるかもしれない。でもどんなに華やかでも、完成した絵の美しさにはかなわない。角に位置する目立つピースもあれば、同じようなピースがいくつもある場合もある。しかし、どのピースであろうとも、たった一つでも欠けていたら、そのパズルは完成しない。どんなに平凡な形でも、どんなにつまらない絵柄でも、欠けているピースがあったら、持ち主は絵を完成させるために一生懸命捜すだろう。
ジグソーパズルがピース一つだけでは意味をなさないように、私たちの人生も個々に完結するものではない。
創造の初めから、キリストが戻ってきてこの地で神の国が最終的な完成を迎えるまでの、連綿とつむがれる神の民の歴史の中で、私たちには担うべき役割が与えられている。だから人生には意味があり、尊いのだ。
人は、自己実現のために生きるのではない。私たちが救われるのも、神の働きに召されるのも、キリストに似た姿に形造られていくのも、みこころに従って導かれるのも、自分のためではなく、神の大きなご計画の中に置かれているからだ 。まだ若く、いろいろな可能性が広がる子どもの人生だが、本人も、子どもを見守る親も、そのことを胸に刻み、主のご計画の一部として生かされていることを喜びつつ、主に信頼していきたい。

*     *     *

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。(イザヤ書55・9~13)