ミルトスの木かげで 第4回 『下流志向』を読んで
中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。
しばらく前になるが、内田樹氏の『下流志向―学ばない子どもたち、働かない若者たち』(講談社)を読んだ。
内田氏はユダヤ人哲学者レヴィナスの研究者だそうで、彼の書くものにはユダヤ的思考が垣間見られ、クリスチャンが読むとハッとするところが多いようだ。本書もクリスチャンの友人に勧められた。
内田氏は、現代の日本の若者たちが、学びや労働から「逃走」していると言う。子どもたちが、教育を受ける権利を、まるで無価値なもののように放棄している、そして「自己責任なんだから、働こうが働くまいが、自分の勝手だ」とばかりに、労働しないことを選んでいると言う。
なぜそういう現象が起こっているのか、著者の仮説と分析によって説明しているのだが、今日は、本書を読みながら思わされたことを少し記してみたいと思う。
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近年、日本では「自己責任」という概念が曲解されているという話を、以前どこかで聞いたことがある。新型インフルエンザが流行ったとき、次々と学校が休校になり、自宅に留まるよう指導されたにもかかわらず、モールや繁華街を歩き回っている子たちがいた。うろうろ出歩いていたら新型インフルにかかるかもしれないから、自宅にいなさいと言われても、「かかったら自分が寝込めばいいことで、自己責任なんだから、他人にとやかく言われることじゃないだろ」というのが彼らの理論だったらしい。
しかし、こういった感染率の高い病気が流行っているときに出歩かないのは、自分がその病気にかかるかどうかだけの問題ではない。罹患する人が続けば、いつまでたっても流行は止まない。各人が罹患しないように気をつけるのは、自分の健康の問題だけではなく、自分の属す共同体において各人が果たすべき責任でもある。
自己責任の意味するところの大きな部分は、「共同体において、他者に対して自分が負う責任」だと思う。「自己責任」は、「あなたには関係ない」とは言わない。
「労働」に関しても同じことが言える。働かなければお給料がもらえないが、困るのは自分であり、他人に迷惑をかけていないのだから、人にとやかく言われる筋合いではない、というものではないはずだ。他人に迷惑をかけていないからといって誰も働かなくなったら、社会はどうなるだろうか。労働とは、自分の生活費を稼ぐだけのことではなく、共同体に対する責任であり、「生きる」ことの一部なのだと思う。エデンの園においても、人間は労働するように造られていた。これは、家庭においてなされる各種の労働も同じ。社会の成員の一人ひとりが自分の分を果たすことで、社会は成り立つ。もちろん、病やその他の理由で、労働という形で貢献できない人たちもいるだろうが、その場合でも、その人ならではの貢献がきっとあるはず。
「学ぶ」ことも、同様だろう。自分の知識や訓練のためだけでなく、ましてや地位や高収入を得るためでもなく、社会の構成要員として社会に貢献・還元していくために必要なのだと思う。人が互いに徳を高め合い、神の召しを共に生きていくために。
『心の刷新を求めて』(あめんどう)で、ダラス・ウィラードはこのような相互依存の関係を「互いに満たし合う交わり」と呼んだ。
「人間の生活とは、それぞれが他者のうちに根ざしていてこそ、自然な状態であると言えます。……私たちは皆、『誰かのため』に生きることが必要です。皆がそれぞれ『誰かのため』に生きるとき、そこには『互いに満たし合う交わり』が出現します。……人間同士の交わりが『本当に大丈夫』であるためには、その前提としてそれを支援する、より大きな交わりがあることが必須です。……同様に、この大きな交わりはさらに大きな交わりを必要とします。……それなしで内側の交わりは存在できません。人間生活とはそういうものです。」(三一九~三二一頁)
そしてウィラードは、このような交わりは、実は人間的には幻想だと言った。父、子、御霊の真の交わりの中にしっかり根ざさない限り、どのような交わりもやがて壊れてしまう、と。
若者が労働や学びから逃走しているのは、崩壊した「交わり」への失望と、自己防衛のためなのかもしれない。だとしたら、この問題解決の鍵を握るのは、神の民の共同体である教会の「いま、ここで」の働きと、来るべき日の、究極の共同体である神の国実現の希望なのかもしれない。
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ