ミルトスの木かげで 第5回 悩める17歳
中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。
午前十時半ごろ、高校に行っている次女から急に電話がかかってきた。「今から家に帰るから」と言う。
「どうして?」
「人生観が変わりそうな重要なことに出会ったので、ちょっと時間を取ってゆっくり考えたいの」
このまま残りの授業に出ていたら、心にわいた思いが日常に紛れて忘れ去られてしまうかもしれない、そうなるのは嫌だから、今、考えたいのだ、と言う。
はあ?
何でも、二時間目の国語の授業で、「インビジブル・チルドレン」というウガンダの少年兵に関するドキュメンタリーを観たらしい。自分より小さい子どもたちが、誘拐され、洗脳され、残忍な兵士に変えられるという地上の地獄。実はうちの教会の牧師の娘(二十一歳)も今、ウィートン大学を休学してボリビアに行き、そこで人身売買によって売春させられている少女たちを助ける働きに関わっている。そんなことも、彼女の脳裏にあったのかもしれない。
でも、だからといって、急に学校を抜け出して帰宅する?国語の先生に「家に帰って一人になって考えたい」と言ったら、「君がすべきだと思うことをすればいい」と言われたのだそうだ。
とにかく事情を聞いて、「わかった。今日だけは認めるけれど、明日はちゃんと学校に行きなさいよ」と言った。ここは本人の納得のいくようにさせるしかあるまい。
次女は、しばらく前から家庭でも、人権問題や社会正義に関する質問をするようになっていた。飢餓や貧困、搾取、人身売買など、さまざまな不義がこの地上を覆う中で、「あなたのみこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」というクリスチャンの祈りは、いったい何を意味するのか、と。また、「クリスチャンにとっての社会改革、教育改革って、どういう意味だと思う?」と突然聞かれ、虚をつかれたこともあった。
彼女の国語の先生や美術の先生が、わりとラディカルなタイプで、そういう話をよく生徒たちにしているらしい。彼女は、先生たちの話を鵜呑みにするのではなく、クリスチャンとして問題を捉え直そうとしているものの、どこから始めたらいいのかわからず、もがいているようだった。
* * *
帰宅した娘の話を聞きながら、「イエスさまは愛と全能のお方だから、時が来ればすべては良いようになるのよ、委ねましょう」なんてことを言っても、この子は納得しないだろうなと思い、ことばに詰まった。
しかしそのとき、主が与えてくださったひらめきか、ちょうど読んでいる最中だった『The King Jesus Gospel』(スコット・マクナイト著)という本のことを思い出した。
この本は、福音主義の教える「福音」が「個人の救い」に還元されてしまったことで、福音本来の豊かさが失われてしまったと語る。「救い」に強調が置かれすぎて、教会は堕落した地上から天国に逃げ出す日を待ち望む「救われた人たちのクラブ」になってしまった。そのため、クリスチャンの使命は「伝道」、すなわち人が救われて天国に行けるようにすることであり、弟子訓練とは、そういう伝道ができるような人を育てることになってしまった……。
しかし本来、聖書に提示されている福音は、イスラエルのストーリーの成就としての救い主イエスのストーリーであり、エデンの園で始まったものが新天新地として完成されるという、全被造物の贖いと回復の希望にまで及ぶ壮大なもの。そして教会とは、この地上においてキリストに倣う弟子たちが「みこころが天になるごとく、地にも」なされるために働き、福音を体現化するという重要な使命を担う共同体なのである……。
お母さんもまだ教えられつつあることだから、よく理解できていないのだけどね、私たちがすでに主イエスにある救いをいただいていることは感謝だし、ほかの人たちにも救われてほしいけど、私たちが宣べ伝えるようにと召されている「福音」は、それだけのものではなかったんだね、と言いながら、そんなことを分かち合った。そして、私自身、目が開かれ、心探られる思いだった。クリスチャンの立場から書かれた社会正義に関する資料はいろいろある。私も学ぼうと思った。
次女は今、高校のシニア。受験生である。大学で何を専攻したいのか、かなり迷っている。応用心理学か、コミュニケーションか、法学か、公衆衛生学か。何を学ぶにしても、「みこころが天になるごとく、地にも」なされるために自分にできることは何なのか、模索していくのだろう。母は、主を畏れつつ、祈りをもって見守ろう。