ミルトスの木かげで 第7回 あわれみ

中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。

三年前のある日曜日のお昼のこと。
家族で焼きうどんを和気あいあいと食べていた。普段は炭酸飲料は買わないわが家だが、ま?やが学校の理科の実験でペットボトルが必要だというので、この日は珍しく台所に二リットルのドクターペッパーがあった。食後、ケンがドクターペッパーを飲んでいいかと聞くので、いいよと答えた。ケンは未開封の二リットルボトルを重たそうに持って来て、テーブルの上にドンと置いた。
そして「ママ、あけて」というので、私があけた。
ところが、キャップをねじった瞬間、ものすごい勢いでこげ茶色のベタベタした液体が噴出。ケンは笑い出したが、私は笑うどころではない。「ケン! ボトルを振ったの? 笑いごとじゃないわよ! お母さんはこういういたずらは大嫌いなんですからね。もうドクターペッパーはなしです!」
私がこんなに激したのにも実はわけがある。テーブルの下に敷いてあったラグは、なんと二日前に新調したばかりだったのだ! あわてて拭き取るも、おニュー(死語?)のラグは無惨にシミだらけになってしまった。
「僕、振ってないよ……」半べそで訴えるケン。みんも「私が見ていた限りでは、ケンは別に振ってなかったと思うよ」。「ドクターペッパーって、炭酸飲料の中でも特に炭酸が強いんだよね。ケンが悪かったわけじゃないと思う」とエミ。
つい、いら立って感情的になってしまい、分が悪い私。いら立ちを必死に抑えつつ、「じゃあ、わざとやったわけじゃないようだし、赦してあげる」とかろうじてケンに言う。
娘たちはさっそくパソコンに向かい、インターネットでカーペットの染み抜きについて調べ始めた。「ぬるま湯で割ったお酢がいいんだって」「ベーキングソーダもいいんだって」。夫も立ち上がり、お酢のお湯割りを作ってペーパータオルでポンポンとカーペットを叩き始めた。ケンも私も一緒に作業した。応急処置が終わって一段落し、娘たちが二階の自分の部屋に戻ったあと、ひとり何かを考えていたらしきケンが、私にポツリと言った。
「今日ね、僕、教会で『あわれみ』について習ったの」
「そうなの? なんて習ったの?」
「『あわれみ』っていうのは、『赦し』と似てるんだけど、『赦し』は『赦すよ』って言うだけで、『あわれみ』は、赦すよって言ったら、罰はもう与えないんだって」
「ふ~ん。じゃあ、さっきの状況でママがケンにあわれみを示したいと思ったら、どうすればいいのかな?」
「赦すよって言って、それからドクターペッパーもくれるの」
「そうか、なるほど……。じゃあ、ママはケンにあわれみを示したいから、ドクターペッパーはなし! と言ったのは取り下げるね」
息子は神妙な表情でうなずき、小さく「ありがとう」と言った。神様ってば、このタイミングは一体……と思いつつ、早速娘たちにもこれをシェアしたくて、私は二階に上がって行った。
「ねぇねぇ、ケンね、今日、教会で『あわれみ』について学んだんだって!」
「へえ~」(三人とも、特に興味を示さない)
「それでね、あわれみについて何を学んだの? って聞いたら、これこれしかじかって言って、じゃあ、ママがケンにあわれみを示すためにはどうすればいい? って聞いたら、これこれしかじかって言うのよ!」
「それで? ママ、どうしたの?」(身を乗り出す娘たち)
「もちろんドクターペッパー、あげたわよ! お母さんだって、あわれみ深くありたいもの!」
私がそう言うと、娘たちは立ち上がり、「ママ、大好き!」とうれしそうにハグしてくれた。

*    *    *

何と言うか、クリスチャンホームって、家族であると同時に、主にある一つの共同体なんだなぁとしみじみと思った。親として、私には子どもたちを教え、しつける責任がある。しかしそれだけでなく、主にある兄弟姉妹同士として、子どもも含む家族の間で、互いにアカウンタブルでもあるのだ。特に、子どもたちが成長してそれぞれに主の教えや主のご性質を学び、理解するようになるにつれ、その要素は強くなるように感じる。子どもは、親としての私だけでなく、主の前の一人の人間としての私のことも見ている。もちろんそれは、裁き目線ではなく、私がへりくだって「教えられやすい心」をもって主の語りかけに応答するならば、一緒にそのことを喜んでもくれるのだ。それにしても、ロバを通しても語ることのできる主は、七歳児の口を通して語ることなどお茶の子さいさいなのですね。参りました。でも、感謝です。