ルケード大研究 ルケードから学んだ説教
物語は年代・国境を越えて |
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作品から人柄まで徹底的に伝えます! |
藤本 満
インマヌエル綜合伝道団 高津キリスト教会牧師
ルケードとの出会い
日本語では出版されていませんが、ルケードの著書で『神があなたの名をささやくとき』(When God Whispers Your Name)という本があります。私がはじめてルケードに出会った本です。冒頭に出てくるのは、事業に失敗し、毎夜のひっそり静まった大きなビルの掃除を任されている男です。社長室も掃除します。椅子に座って、かつて自分がそういう地位にいた頃を悲哀とともに思い出しています。
突然、モップを浸したバケツの中から、「ヘンリー、ヘンリー」と自分の名を呼ぶ声がします。誰かのいたずらだろう思いながら近づくと、バケツの水は「それ以上近づいてはならない。あなたの足の履き物を脱げ。そこは聖なる地だ」と語るのです。言うまでもなくこの場面は、ミデヤンの荒野で羊を飼っていたモーセに神が声をかけられた場面を再現しています。挫折し、かつての名誉を失った男に神が再びその名を呼ばれて召されました。
モーセ物語を語った後、現代の私たちに適用する、という一般的な聖書講解の切り口ではなく、ルケードは現代社会に生きる私たちの物語を、直接聖書の物語と重ねるのです。彼の著作には一般的な聖書講解の手順はありません。私たちの人生はすでに聖書の中に吸い込まれていて、聖書の中で自分の人生を見直すことができるように語られています。聖書の物語と私たちの物語を自在に一つに織り交ぜて語る能力――ここにルケードの魅力があるのです。
説教が心に響いていない
私が 牧師になってしばらくしての役員会の席上でした。一人の役員の方がいいました。
「先生、八っあん、熊さんでもわかる説教をしてください」
この指摘をもって、説教者としての私の仕事は大きな壁に突き当たっているということを痛烈に受け止めることになりました。説教が概念的、神学的、きわめて学問的であるという傾向は、教会員の多くがきっと頭を悩ませておられたのでしょう。
「八っあん、熊さんか……」と思って自分の書斎を眺めてみると、なるほど、ほとんどの本が神学や聖書学のものでした。いや、そうしたことだけでなく、話の組み立てが理詰めで、心に響かないのです。そんなおりに私はルケードと出会い、次々に出版される彼の本を欠かさず読むようになりました。
東京を歩くかのように
ルケードは福音書からイエスの物語を語ることを得意としています。
すでに翻訳されている『ファイナル・ウィーク』(And the Angels Were Silent)や、『金曜日の六時間』(SiX Hours One Friday)や『人はイエスを救い主と呼ぶ』(No Wonder They Call Him the Savior)は十字架の物語、『神はいまだに石を動かされる』(He Still Moves the Stone)は復活の物語。イエスは東京の街を歩いておられるかのように、登場人物は21世紀を生きる私となんら変わりなく描かれています。聖書の原語を難しく分析するでもなく、神学的な洞察力をもって現代社会と対話を試みるのでもなく、急所を押さえて「物語をいかに語るか」によって、現代の私たちに、イエスを現実味のあるものとしてよみがえらせてしまう――これが決して真似することのできないルケードの語り口です。
しかしルケードは、単に上手なストーリー・テラーというのではありません。イエスを物語るルケードのこだわりには、キリスト教の精髄とでも言うべき、深い神学的な確信を感じるのです。
わたしは渇く
日常生活の中で私たちが普通に口にする言葉に、「のどが渇いた」というのがあります。その言葉をイエスは十字架の上でそのまま口にしました。罪を赦したり、パラダイスを保証したり、救いの御業を完成したり、と神の権威に帯びた言葉と共に、「わたしは渇く」という実に日常的、人間的な渇きを、息を吐くようにもらされたイエス。ルケードは、その言葉を捉えて、神の御子が徹底して人となられた姿を掘り下げます(『人はイエスを救い主と呼ぶ』)。
あるいは、イエスの母マリヤに投げかけた「女の方。そこにあなたの息子がいます」という別れの言葉を、私たちが無数に体験する人生の別れの悲しみ、離別の悲哀とかさねて描きます。
闘病の末、天に召される人が愛する家族にかける別れの言葉。遠くの地に赴く宣教師が「さようなら」と家族と交わす別離の言葉。私たちが体験する別れの悲しみは、イエスの悲しみであり、イエスの物語のなかに私たちの姿があるのです。
ルケードの確信
ルケードは何にもましてイエスを描きます。イエスにこだわります。それは、神の子イエスの言葉の中に、その行動、その御業、その姿勢の中に、こんなに罪深い私と世界を救うことのできる力がすべて秘められているという確信があるからでしょう。主ご自身が「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14・9)とおっしゃったように、イエスを描けば描くほど、父の懐からあふれ出る神の愛と力を描くことになる――それがルケードの物語の背後にある確信であろうと思います。同時に、人の子イエスの言葉、行動、その姿勢の中に、私たちは限りなく自分の姿を見るのです。それは自分の悩みであり弱さであり、罪にまけそうになる自分であり、しかしそれに打ち勝つことのできる自分なのです。
「イエスを仰ぎ見る」ことに救いの鍵があるとしたら、イエスを描くことに、作家として説教者としての使命をかけるという気迫を、ルケードのやさしい文章の背後に見るのです。