一粒のたねから 第6回 〝メンヘルトーク″と『デンマルク国の話』
坂岡隆司
社会福祉士。精神保健福祉士。インマヌエル京都伏見教会員。
ある社会福祉事業家の講演を聴きに行ったときのことです。質疑応答の時間に、ひとりの年配の女性が、傍らに座っている三十歳前後の青年を見やりながら質問しました。
「先生の施設に入れば、息子はちゃんと生きていくことができるようになりますか」
何でも、研究職を目指して勉強していた息子さんは、大学卒業を目前にして精神を患い、退学せざるを得なくなったということでした。その後は、家で何をするでもなく、ボーッと過ごしながら、時々、大学時代に読んでいた学術書をパラパラとめくってはながめているとのこと。
その女性は続けて言います。
「私も最初のうちは、よくなって息子が大学に戻ることができるのではないかと期待したこともありました。でも、もういい加減そんな夢はあきらめて、何か自分の身の丈に合ったことを見つけてほしいんです。先生の施設に入れば、息子はちゃんと生きていくことができるようになりますか」
「それは本人次第ですが、うちでは、息子さんのような青年が何人も生き生きと働いていますよ」
講師は力強く答えました。
「ありがとうございます」
何がありがとうなのか、少し不思議な気がしましたが、とにかくそう言って、女性はこの講師の言葉に希望を見出したようでした。息子さんは、その横でただ黙ってそのやりとりを聞いているばかりです。
難関大学に入り、将来を嘱望されていた息子さんだったようです。それだけに、病気になった時のお母さんの落胆は大きかったと思います。身の丈に合ったことを見つけて……という言葉にたどりつくまでには、多くの葛藤があったに違いありません。そして、息子さんの「身の丈に合ったこと」を見つけられそうな場所を必死で探し回るお母さんの一生懸命な気持ちがひしひしと伝わってきました。
一方、息子さんのほうは、そんなお母さんの思いに必ずしもついて行っているふうでもありませんでした。それでも、母親の期待に沿えなかったことへの後ろめたさからか、あるいは母親の行動力にすがることで何か活路が見出せるかもしれないという期待があるのか、とにかく言われるままにここに来たという感じです。
大学時代、興味をもって夢中で読んでいた難解な本を読みこなす集中力は、きっと今はもうないのでしょう。それでも時々パラパラとページをめくってみます。そのたびに、そこに書いてあることがすでに遠い世界のものになってしまっていることを思い知る、そんなことのくり返しなのではないかと想像しました。思うようにいかない自分―何がどう、と言われてもおそらく答えられない―そんな、戸惑いと悲しみの中で、ぼんやりと彼はそこに佇んでいるようでした。
* * *
私たちは、生き生きと、希望をもって、明るく人生を生きることを望みます。しばしばそれは宗教に求められるものです。ですから、教会は熱心に伝道をします。どんなに困難や試練が襲ってきても、あなたは必ずその困難に打ち勝って、前向きに生きていくことができる。だからイエスを信じなさい、と。
それは決して間違いではありません。けれども、病気になって、思うようにならない自分を抱えながら、黙って今日を生きているあの青年のことを考えると、それも何か違うように思うのです。
「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」(箴言19・21)
聖書にあるこの言葉は、はっきりと人の思いと神のそれとは異なるものだと言っています。しかし、これは人の思いと神のはかりごとを相対立するものとしているのではなく、むしろ神のはかりごとは、人の思いを十分ふまえて、なおそのうえで実現していくものだと言っているように思います。神のはかりごとは、人の思いを包んでいる、とでも言ったらいいでしょうか。
「生きる」ということの明るい部分、前向きな部分は大切です。しかし、目標や生きがいを見失い、暗く打ち沈んだ気持ちを抱えながらも、それでも今日一日を死なずに生きたということだけで、それは十分立派なことです。誰しも神のはからいを信じて、希望に満ちていた過去の自分をよすがにしてでも、それでもじっと耐えて生きぬかなければならない時期があるのだと思います。
あのお母さんと息子さんは、今どうしておられるのだろうかと、ときどき思い出します。大切な学術書は、まだ彼の手元にあるのでしょうか。