世界の宗教を学ぶ意義 宗教社会学からの提案

渡辺 聡氏
東京バプテスト教会ミニストリー牧師

 今日、宗教をめぐって、日本人だけでなく世界中の人々が大きな困惑を感じています。日本では1995年に起きたオウム真理教の地下鉄サリン事件が衝撃的でした。世界に目を向けても、1978年の人民寺院、1993年のブランチ・ダビディアン、1994年の太陽寺院、1997年のヘブンズゲートなどが極端な教理のゆえに信者の集団自殺を引き起こし、大きな社会問題となりました。そのような状況の中で、自分が無宗教だと考えている多くの日本人は、宗教は危険なもの、恐ろしいものという否定的な感情を持つようになっています。 21世紀に入ると、世界情勢は宗教がらみでますます混迷化しています。2001年9月11日の「同時多発テロ」以降、イスラム過激派テロに対する米国を中心とした多国籍軍による軍事介入が、アフガニスタンやイラクに対して行なわれました。しかし、軍事力による介入は地域の安定を築くことができなかったばかりか、イスラム過激派はさらに過激な過激派組織ISを生み出し今日に至っています。彼らがキリスト教徒を処刑する映像や、ヨーロッパ各地で起きる自爆テロのニュースは、一般の人たちにそれがあたかもイスラム教対キリスト教の宗教戦争であるかのように思わせるものとなっています。

 このような社会的状況によって、今日宗教に対する関心はますます高まっています。書店に行けば、宗教の解説書があふれています。しかし、それらが人々に宗教に関する深い認識を与えているかというと疑問があります。例えば日本では一部識者の中から、「日本は多神教で寛容だが、欧米の宗教は一神教で不寛容」という定説が繰り返し述べられています。これは、個々の宗教の教義や歴史をきちんと学ぶことなく極端に単純化した議論です。その根底には外国の宗教は危険だが、自分達の宗教は安全だという独りよがりな自己肯定意識があるように思われます。また、過激な宗教集団の危険性を過度に強調して人々を煽り、それに対抗するためには武力によって制裁を加えなければならないのだという政治的発言が増えているように思います。しかし、いつも戦争を引き起こすのは知らないものを恐怖するパラノイア的発想です。宗教の一面性だけを強調し、それに対して短絡的に行動を起こすことは慎まなければなりません。

 ところで、最近の社会学の傾向でもあるのですが、宗教の持っている働きに注目するあまり、個々の宗教の教えの中にある根本的な違いに目を向けなくなることが多くなっているような気がします。宗教には、「意味を与える」という働きや、「社会をひとつにまとめる」などという働きがあります。このような働きに注目するのが、社会学における機能主義と呼ばれるアプローチです。これに対して伝統的な宗教研究のアプローチは、個々の宗教を比較しその違いを明らかにしていこうというものでした。違いを明確にしていこうとするアプローチの前提には、どの神が一番正当性を持つかという価値判断が抜きがたく入り込んできます。しかも、伝統的なアプローチの方は西洋社会という文化的背景をもっていましたので、そこにはキリスト教の優位性を強調するという傾向が少なからずありました。それに対して機能的なアプローチは一見中立でした。学問的には、このような中立的な立場は大いに歓迎されたのです。 ところが、機能的なアプローチの方にも新たな限界性が見えてきました。それは、ひとつの機能が満たされるならば、どの宗教も本質的には同じものだといって、それぞれの違いに目を向けなくなってしまうという問題です。社会学者のピーター・バーガーは次のように述べています。

「宗教の持つ特定の要素は、他の現象の持つそれと同じだとみなされることによって排除されてしまう。宗教現象は平坦化され、最後にはもはや認識されなくなるのである。宗教はすべての猫が灰色に見えてしまうような夕闇の中に吸収されてしまう。」 日本人である私たちは、この問題点については特に留意する必要があります。なぜなら、日本的な価値観の中には「宗教は違っても、結局のところ皆目指すものは同じだ」といって建前上は相手を認めながらも相手に関わらないようにしようとする傾向があるからです。

 機能主義的なアプローチは、一見私たちに宗教が分かったかのような気持ちを与えますが、実のところ宗教について十分な説明をしていないのです。現実に目を向ければ宗教は皆同じであるどころか、それぞれが様々な主張を持ち、価値観をぶつけ合っています。もし私たちがそのような現実に目をつむり、宗教は結局皆同じだ。だから、こちらから関わらなければ問題は起こらないと安易に決め込んでいたら、最終的に大きなしっぺ返しを被ることになるでしょう。私たちは今こそ丁寧に、違う文化の中にある違った宗教に目を向け、それぞれの違いを注意深く観察していく必要があるのです。

 さて、わたしが教えている大学の宗教社会学の学生に、「世界の宗教対立をなくすためにはどうしたら良いと思う?」と聞くと、「善悪二元論を廃止する」、「神という盾をなくすしかない」、「宗教のない社会にする」というような答えが返ってきました。残念ながら、それらはいずれも現実的な解決法ではないように思えます。そもそも、宗教は個人の意志や政策によって造り出されるものではありません。むしろ宗教は、あたかも津波や台風が私たちに襲いかかって来るかのように私たちを翻弄し支配するのです。 宗教を理解するための昔ながらのアプローチの仕方は、個々の宗教の教義や儀礼、組織構造、歴史などを比較することによって、その違いを明確にしていくことでした。宗教が宗教である前提は超越という概念を持っているということです。言葉を変えれば、「私の宗教の神様とあなたの宗教の神様はどこが違うのか」ということが重要です。そこをきちんと理解するためには、世界の宗教を説明したガイドブックなどに親しむことも助けになるでしょう。

 もしあなたが何らかの宗教を信じているのならば、他宗教を理解するために自分の信仰的価値観を相対化したり捨てたりする必要はありません。そんなことを言うと「だから宗教は最終的に妥協することができず、排他的になっていつまでも対立し合うんだ」と批判されるかもしれませんが、他の宗教についてできるだけ詳しく理解し共感することと自分の信念をしっかりと持ち続けることは両立されなければならないのです。さもなければ、私たちは多元主義的な世界観の中で自分を見失ってしまうことになるでしょう。 しかし、今日私たちの周りで繰り広げられている宗教に関わる様々な社会的対立を乗り越えていくためには、宗教をただ知識として知り、頭の中だけで整理しているだけでは十分でありません。他の宗教を信じる人に対して開かれた態度を持つためには、積極的に自分とは違う宗教を信じる人たちと友達になる必要があります。私はアメリカでイスラム教を信じるイラン人と友達になりました。そのとき私はイランの人たちが日本のアニメが大好きだ(しかも「一休さん」!)などということを初めて知りました。また、彼女から自分の信じる信仰の中で、彼女が誇りに思っていること、疑問に思っていることなどをいろいろ聞かせてもらいました。まず、日常的な所から親友を作ってください。関係作りができたら、率直に自分達の信仰について紹介し合ったら良いのです。そこに友達がいれば、その国に対して戦争を仕掛けようとする人は少なくなるはずです。