信仰を自分のものとしたとき 笑顔でいることができなくなって
荒川 道子
2003年度 聖書神学舎卒業予定
私は信仰的によい環境であると思われがちな、牧師の家庭に生まれて育ちました。ぼんやりとした信仰でしたが神様を信じ、主に喜んで仕えている両親の姿を見て、私もそのように生きたいと願うようになりました。
しかし同時に、教会と神様のために、多くの時間と労力を使い、時には涙して仕えていた両親を見て、感受性が強かった私は、小さいながらにも、これ以上重荷を背負わせてはいけない、困らせてはいけないと思い、自分の感情を内側に閉じ込めるようになりました。私の心は、固い殻の中に閉じこもり、自分が何を感じているのか、何に傷ついているのかも分からないまま、人々に好かれるように、役に立つように、がんばって生きていました。
二十歳になって、とても悲しいことと直面した時に、私の心から悲しみ、怒り、憎しみ、失望感が溢れ出る経験をしたのですが、それが自分の育った環境を考え、内面をさぐり始めるきっかけとなりました。神学校に行った私は、それでもなおがんばり続けたわけですが、心も体も限界がきて、笑顔でいること、人に役に立つ自分でいることができなくなりました。こうあるべき自分でいられなくなった時、生きている価値がないと思うほど落ち込みました。溢れてくる失望感と虚無感を神様に出すことができず、どうして世の中に悲しいことがあるのか……どうして教会は……どうして私は……と問うては、日々ただ涙していました。
けれども、キャラバン伝道でお世話になった北海道の教会の先生が、ぜひ来てくださいと声をかけてくださって、そこで休ませて頂いた時に、やっと私は神様に叫ぶことができました。嫌だった感情の一つ一つを神様に正直に注ぎ出す中で、神様の愛に包まれる経験をしたのです。そして、親の信仰でなく、こうあるべき信仰でなく、人に役立とうとする自分でもなく、ありのままの私と神様との温かな関係が、少しずつ築かれていきました。
貧しく、渇いていた本当の私に神様は触れてくださり、慰さめ、励まし、どこまでも延ばされる永遠の腕を感じさせ、溢れてくる自己中心な思いが原罪であることを教え、悔改めへと導いてくださり、自分を赦し、人を赦すこと、苦しみの意味、神を恐れること、人を愛することを、一つ一つ心の中にしみ込ませて下さいました。日々の神様との飾らない交わりの中で、みことばから心に教えられることによって、一枚一枚紙が敷かれていくように、長い時をかけて、信仰が自分のものになっていきました。そして、八年たった今、心から信じ、喜び、愛することができる者へと、神様は変えて下さいました。
クリスチャンホームの子どもたちは、小さなころから、みことばを聞いて育ちます。けれども、すぐにその基準に生きるように求められてしまうと、ある年齢になった時、自分を抑えて、また自分を隠して、無理してよいクリスチャンを演じてしまうか、無理ができなくて教会の外に出てしまうかの、どちらかになってしまうことが多いのではないでしょうか。人間の力でみことばに従っていくことは出来ません。神様の恵みによって、御霊によって、みことばに従って歩むことができるようになります。みことばを、受け止めていくときには、葛藤があったり、時間がかかったりするかもしれません。けれども、葛藤を避けてしまうことなく向き合い、本人も、周りの人もあせらず、御霊の実が結ばれるまで、待つことが必要なのではないでしょうか。
心の殻をやぶって……卵の殻をやぶって、雛が出てくる。
無理やりにではなく、
内側からあふれてくる。
心から喜べるようになった。
心から信じることができるようになった。
心から愛することができるようになった。
こんな時が来るとは思わなかった……。
だから、大丈夫。
あなたにもそんな時が来るよ。必ず来るよ。