信仰を自分のものとしたとき 葛藤の中で見つけだした信仰

金本 悟
金本 悟
練馬神の教会牧師

 私はクリスチャンホームに育った。高校生の時に信仰を持ち、大学時代はキリスト者学生会(KGK)で信仰の養いを受け、教会でも忠実な信仰生活を送ってきたと思う。学生時代、私はイエス様と同じように隣人を愛することができると心から信じていた。

 しかし、いざ、人を愛することと、自分を愛することとの間で利害関係が絡んだときに、自分を優先し隣人を愛せないことを見いだしてしまった。その時の驚愕と恐怖を今でも忘れることができない。そのような時、ヨナ書を読み、自己中心な預言者であるヨナをも大切にする神の愛に触れ、献身した。自立した信仰への第一歩であったと今にして思う。

 また、信仰を深める一つのきっかけになったのは、留学中に読んだ聖書論の本だった。目から鱗が落ちるほど驚いた。そこにはいままで自分を育んできたものとは異なる聖書論が書かれていた。

 もしかしたら、自分が今立っているところは、教会や両親から押しつけられた「独善的」な聖書観にすぎないのではないかと疑問を持ち始めた。それまでは、両親や母教会の多くの兄弟姉妹からの手紙によって励まされていたが、それが「束縛」へと変わっていった。

 この経験を通して、私は自分自身の信仰と思っていたものが、実は両親や教会から受け継いでいたものであることを知った。その後の三、四年間、私は、両親と母教会の信仰と、新しく目の前にした聖書観との間で葛藤を続けた。そして、その頃の葛藤が自分自身の信仰を確立していった。

 私たちがみ言葉に学び続けるときに、神様はいろいろな機会をとらえて(往々にして、私たちに苦しい経験を与えて)、私たちの信仰を成長するように導いてくださる。

 信仰の継承について考えるとき、個々人のクリスチャンより、クリスチャン・ホームの置かれている状況を考える必要がある。子が信仰を持つか否かは、親のあり方だとは決して言うことはできないが、親の生き様が少なからず影響していることは否定できない。

 ある時、牧師たちの間で、自分の子供が高校生で東京大学に入れる学力があり、本人としては高卒で神学校に進みたいというような場合、親としてどう助言するかという話が出た。そこでは、東大を出てから神学校に行っても間に合うのでないかとアドバイスをするとの発言が多かった。ただ一人だけ、教派立の神学校に行くように勧めると言っていた。

 土居健郎氏は、『甘えの構造』(弘文堂)の中で、日本人としての成熟について語る。この場合、成熟した人とは本音と建て前を適切に使い分けることのできる人を言う。そのような文化が日本にはあるという。

 クリスチャン・ホームとはいえども、聖書の価値観を教えながら、この世の成功を子供らに求める日本的に「成熟した」親たちは、少なくない。もちろん、この世の価値観をすべてを否定するつもりはない。ただ、親たちは、自分が持っている価値観が聖書的であるかを、子供とともに確認していく必要がある。

 クリスチャンとしての成熟とは、言うまでもなく、本音と建て前をうまく使いこなし、この世において成功を求めることではない。イエス・キリストの求めている神の義と神の国を求めつつ、与えられた十字架を背負いながら復活の生命に生きていくことである。その生き様は、この世においては惨めで、日本社会で後ろ指を指されるものであったとしても豊かで、恵み深い。

 クリスチャンホームで育った子が、熱心に聖書の真理を求めれば求めるほど、日本的な本音と建て前の二枚舌を悪の現れとして否定する気持ちが強くなるであろう。そして、大人になり、世の中の事柄を知るにつれて、良くも悪くも親の「独善」性に気が付いていく。自分の意志で歩み出すとき、クリスチャンである親の本音と建て前の狭間で葛藤することになるかもしれない。

 だが、自分が育った環境や、聖書の真理の中で葛藤できることは恵みであると自分の経験から確信している。そのような葛藤のなかで、自分自身の独善や偏見にも気づかされ、謙遜にさせられていく。

 自分に与えられた環境を、吟味し乗り越えていくことが信仰の歩みと言えるのだろう。