信徒のための注解書を使った聖書の読み方入門 最終回 聖書の読解作業の実例(2)
水谷恵信
札幌キリスト教会召団 牧師
私が「マルコによる福音書」六章三四節から四四節までより学んだことを人に伝達するとしたら、次の手順で作業を進めます。
主題を決める
一読した後、翻訳を比較し、注解書を学んで、神の恵みは何と豊なことかと思いました。自分たちがしなければならないと分かってはいても、自分たちには到底不可能と思える仕事が、イエス様に従えば、こんなに見事に成し遂げられる。自分たちの持ち合わせの僅かな物が、神様の祝福を受ければ、溢れるばかりに増える。何という素晴らしいことでしょう。人はこれをおとぎばなしのように思って、本気で信じようとしません。しかし、私は小さな自分の家庭を開放して、九年間に四百人近い人を招いて一緒に暮らし、そのほとんどの人を元気にして持ち場にお返ししました。塾の共同生活を数日でも体験した人は、塾を満たしている温かい空気を忘れることができません。塾で暮らした経験者はみんな私たちの家族同然に親しくなります。私たち夫婦は四人の自分の子どもたちに与えるべき愛情を四百人の若者たちにも分かち与えて、神様から百倍の子どもを与えられたのです。
それを考えると、五つのパンと二匹の魚を五千人の男が満腹するほどに増やす奇跡は体験できないまでも、自分が持っているわずかな物を神様に差し出して、神様の祝福を受けるなら、それは大いなる働きに発展する、という神の恵みは信じられるでしょう。
構成を整える
私は基本的に話を起承転結でまとめます。「起」は聞き手の興味を引くエピソードなど、聞き手の心をこの話の世界に引き込むための現実的な話題を提供する部分です。「承」は話の行き着く先が誰もが知る不幸に繋がるという話をします。「転」で話の流れを逆転させます。聖書が語る真理を示し、常識を覆す発想や方法で幸福を見いだす、ということを話します。最後に「結」で主題で考えた結論を短い印象的な文にまとめます。概略を文章化する
私たちの家族は札幌の住宅街で何不自由ない暮らしをしていました。ところが、ある日突然、私に召命が与えられたので、高校教師の職を辞して余市の農村に引っ越し、農事に携わりながら、人生に行き詰まっている人を家庭に招き、聖書に基づく信仰と愛し合う生活体験を通して、彼らの命を回復させる、という働きを始めました。月給が入らなくなり、利益にならない農事に勤しむ生活をして、本当に生きて行けるのか。誰もが心配し、理想を掲げて厳しい現実に打ちのめされた先達のことを例に挙げて、現実的に考えるように、狂信的にならないように、と忠告してくれました。
ところが、農業収益などほとんどなく、来客から生活費を取らず、現金収入に結びつくアルバイトもしないのに、世の中に借金することなく、子どもたちを学校にやり、みんなで三度の食事を取り、農地を広げ、立派な建物を次々に建て、働きを驚異的に拡大して来ました。
聖書はイエス様が五つのパンと二匹の魚で五千人の男を満腹させた驚くべき奇跡について語っています。奇跡の発端は、イエス様がイエス様を待ち構えている大勢の群衆を見て、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」という箇所にあります。胃袋も魂も飢え渇いている群衆を見て、神の愛がイエス様の心に突き上げて来たのです。砂漠に泉が噴き上げて大地を潤すように、渇いた魂に出会うと、神の愛はその内に流れ込もうとします。しかし、不信という罪が人と神との間を隔てています。ここでは弟子たちが「私たちがわざわざ二百デナリものパンを買って来て、みんなに食べさせなくてはなりませんか」と言って、人の罪深さを代弁しています。イエス様は模範を見せてくださいました。手持ちの弁当を神に捧げて祝福を乞い求め、整然と並べたグループごとにパンを分けると、独り占めする者は一人もなく、みんな隣人のことを思いやって割き、分け与えたので、愛し合う愛によってパンは増え、ついに全員が満腹して、なお余った、というのです。
神様は愛し合う私たちの中に住んでくださいます。神様が共におられるなら、私たちが捧げる物がどんなに粗末でも、祝福して、驚くべき恵みとして私たちに返してくださるのです。神様の恵みの豊かさは、人知を遙かに超えていて、実に感動的です。
(参考注解書一覧)ティンデル聖書注解、ウィリアム・バークレー聖書注解シリーズ、NTD新約聖書注解、シュラッター新約聖書講解、註解新約聖書・黒沢幸吉、コンパクト聖書注解