信徒のための注解書を使った聖書の読み方入門 第4回 聖書の読解作業の実例(1)
水谷恵信
札幌キリスト教会召団 牧師
マルコによる福音書六章三四節から四四節までを使って、私の実際の読み方を紹介しましょう。
様々な翻訳の聖書の読み比べ
新共同訳聖書を基本に据えて、いろんな翻訳の主な異同を調べると、以下の通りになります。三四節「大勢の群衆を見て」=群衆が待ち構えているのをご覧になって。「深く憐れみ」=憐れみの情に心を動かされた=はらわたのちぎれる想いに駆られた。
三六節「自分で何か食べる物を買いに行くでしょう」=めいめいで買うようにさせてください=己がために食物を買はせたまえ=何か自分たちの食べる物を買って来るでしょう。
三七節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」=あなたがたであの人たちに何か食べる物をあげなさい=あなたがたの手で食物をやりなさい=そなたたちが食べさせてやればいいではないか=あなたたちが自分で何か食べる物を与えなさい。「私たちがみんなに食べさせるのですか」=私たちがあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか=私たちの方がわざわざ行って、彼らに食べさせるというのですか=私たちがみんなに食べさせなくてはなりませんか。
三八節「パンは幾つあるのか。見て来なさい」=今パンがいくつあるか。見て来なさい=パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい=あなたたちの手持ちのパンはどれほどあるか、行って見て来るがよい。
四〇節「まとまって腰を下ろした」=固まって席に着いた=列をつくって座った=一列一列になって座った=きちんと並んで座った=花壇のように整然と並び、まるで庭園のようであった。
こうして翻訳を読み比べてみると、イエスや使徒たち登場人物のこまやかな心の表情が一つの翻訳よりも生き生きと伝わって来ますし、場面が絵画的に眼前に思い浮かびます。
注解書を使った補足
このエピソード全体がさらに鮮明に思い描かれるために、注解書を使って補足してみます。三四節「大勢の群衆を見て」=イエスがご自身と弟子たちのために求められた休息はかなえられなかった。プライバシーは侵害されたのである。普通の人なら誰でもひどく腹が立つだろう。「飼い主のいない羊のような有様」=彼らはイエスのみが与え得るものを熱心に求めていた。絶望して頭がおかしくなって、わずかばかりの希望を与えてくれる人なら誰でもその後についていく。それゆえ、彼らはイエスを片時も休ませない。彼らの神を仰ぐ目はどんなに歪められ混乱していたことか。聖書はどんなに彼らにとって閉じられた書物であったことか。そして、彼らの社会生活は互いにどんなに障害と誘惑に満ちたものであったことか。彼らは脅かす危険に対して無防備である。盗人や野獣から自分を守ることができない。
三七節「一デナリオン」=労働者一日の賃金。
三九節「青草」=この物語が夏の太陽の猛烈な熱で草が黄ばみ枯れる前の晩春に起きたと推定できる。その頃、太陽は午後六時に沈んだので、それは午後遅くであったに違いない。
四〇節「列を作って座った」=列(プラシアイ)という語は非常に絵画的な語である。それは畑の野菜の列を示す普通のギリシャ語である。そのようなたくさんの小さな群れを眺めたとき、人々がきちんと列を作って座っていたので、彼らは全く畑の区画の中の野菜の列のように見えた。
四一節「パンと魚」=大麦の粉で作った丸くて薄い皿の形で親指ほどの厚さのものだった。大麦のパンは最も貧しい人達の食物で、パンの中で一番安く粗末なものであった。鰯ぐらいの大きさの魚で酢漬けか薫製にしたものをパンの付け合わせとして食べた。
四三節「籠」=正統派のユダヤ人は自分の籠を持たずに旅行をすることはない。それは枝編み細工の籠で、首の細い水差しのような形をしており、下に行くほど太くなっていた。
四四節「男が五千人」=ガリラヤ湖周辺の村や町は小さく、この地方全体の人口密度が高くないことを考えると、驚くべき大きな数字である。
これだけ補足すれば、五千人の給食の事件は、救いを必死に求める群衆と、為す術なく戸惑う弟子たちと、創造主の絶大な力を存分に注ぎ出して救わんとするイエスの感動的なドラマとして眼前に生き生きと描かれて、聖書の切実な訴えも心に響いて来るでしょう。
次回はこの箇所から、実際にどのように組み立ててメッセージにまで結晶させるのかを紹介します(参考文献も次号で紹介します)。