“信教の自由”がなくなるとき 教会が自由を手放すとき(後半)

上中栄
日本ホーリネス教団 鵠沼教会牧師

二、今日の「危うい」信教の自由

[1]「危うい」制度の推移
 まず、首相の靖国神社参拝です。毎回、政教分離原則に抵触すると抗議の声が上がりますが、首相も「信教の自由」を語ります。何が問題なのでしょうか。まさか神社は偶像だから悪いが、教会なら良いというキリスト者はいないでしょう。その程度の感覚で政教分離原則を持ち出せば、首相が教会へ来ることも拒まなければなりません。

 靖国神社は、国のための死を顕彰し、戦争を正当化する機能を持っていました。今でも、かつての戦争を肯定する特定の歴史観を持っています。一宗教法人としては、それも認められるべきです。しかし、そこに首相が参拝すると、首相個人の「信教の自由」では片付けられない政治的メッセージとなります。アジア外交で問題となる点です。

 さらに問題なのは、初詣や首相個人の心情など、日本の文化や習俗を持ち出すことで、靖国参拝という宗教行為の意味が薄められていることです。これが法制化されると、当然、特定の歴史観ばかりでなく、宗教行為そのものに政治権力が介入しやすくなります。

 法制度上「信教の自由」はなくならないと申しました。たとえば、自民党の新憲法草案にも「信教の自由・政教分離原則」は明記されています。しかし、「社会的儀礼又は習俗的行為」を除外しようとしています。つまり、靖国神社参拝などが社会的儀礼だと言えば、国家護持のような政治権力の介入も合憲になります。これが、今日の改憲論議の問題点のひとつですが、旧憲法の国家神道別格の「追認」と同じことです。すると、もうおわかりのように、「信教の自由」などないに等しくなるのです。

 このことがすでに具体的に進んでいるのが「日の丸・君が代」です。国旗・国歌法制化の時、あれほど強制はしないと言いながら、特に都立校では強制されています。もちろん、役所は決して「強制」と言いません。上智大へのあの時の返答と同じ「巧み」さです。

[2]教会の「危うさ」と確かさ
 さて、私もジョン・レノンは好きですが、平和をめぐってすぐに『イマジン』が引き合いに出されるとき、ファッション性以上のポリシーがあるのかと思うことがあります。聖書や福音を掲げて平和を訴える教会にも、似た危うさを感じることがあります。

 まず靖国問題は、教会にとって福音をめぐる問題です。靖国神社の最大の機能は、「死」の意味づけだからです。信教の自由や政教分離原則を主張するだけでなく、靖国神社にまさって人間の生と死に関する救いのことばを教会が語れなければ、日本の文化や習俗という名目の中で、福音の輝きは失われることになるでしょう。

 また、「日の丸・君が代」についても、強制に反対し正義を主張すべきでしょう。同時に、教会には教職員も集い、その思いも一様ではありません。教会がそのジレンマと向き合い、共に歩んでいるか吟味しなければ、その主張は宣教のことばにはなりません。

 歴史を振り返るなら、教会の闘いが容易でないことは明らかです。自らの正義を主張すれば自己義認に陥り、保身に走れば偶像礼拝などに陥るのです。しかし、このような弱さをもった教会に、福音宣教の業が託されていることの意味は大きいはずです。

 教会にとって自由は、神から与えられているのであって、国から与えられるものではありません。ですから、教会は信仰によって自由に生きることを勝ち取らなければなりません。そのことを見据えていなければ、「信教の自由」がなくなるときとは、国家権力に奪われるというだけではなく、教会が自由を手放すときです。