四季の庭から 10 育てる人
森住 ゆき
日本福音キリスト教会連合 前橋キリスト教会会員
そんな言葉をいつの間に覚えたものやら、と思わず感心してしまうのは、たいてい娘が反抗モードにはいっている真っ最中だ。
生まれたばかりは、我が子なのに異星人。授乳と排泄の世話以外、どうコンタクトしたものか手探り状態だったのが、ほどなく意志の輪郭が淡くあらわれ、やがて霧の中からゆっくりと人間が立ち上がってこちらにやって来るような気がする時が来た。言葉ではないにしろ、何となく気持ちが通じるようになったのはその頃からだったろうか。
言葉を発するようになると、やがて「いや」という抵抗がはっきり表現できるようになった。というよりも、言葉の習得と外界への反抗は、完全にシンクロしているのではと思うほどに、一種の調和が感じられた。
10歳になった娘は調和がさらに進んで(?)、いっぱしの弁舌で親に挑むようになった。親に完全に依存しつつ、同時に理屈にあわない反抗をする。子供でいることの息苦しさはそこにある、と経験上わかってはいても、その深い矛盾を受け止める力がない私であるので、神さまと娘の前に失敗の山を築いている毎日である。
信仰がなければ、とふと思う。私の性分は、娘の前ではあくまでも正しく強い張り子の虎になりたがるだろうか、と。主の前に静まり、「さっきはおかあさんも言い過ぎました」と言わせてもらえるとき、私は人間として最も危うい種類の傲慢から守って頂いていると感じる。