少年たちは現在(いま)・・・ 11 フリースクールからかいま見た姿
塚田 明人
待望塾代表
幼い日の記憶
五歳のとき、Sさんは都会から、山村に引っ越してきた。芸術家の父親がアトリエを自然あふれる山村に移したからであった。しかしその自然の美しさとは裏腹に、村人との関係は難しかった。地縁、血縁で固く結びついた村人にとって、彼らのような初めての都会人は珍奇な「よそ者」であったからだ。そんなSさんの幼い日の記憶を紹介したい。「私が、初めてこの村の保育園に入園した日、園児たちの、めずらしい動物でも見るような眼差しが私に一斉に注がれました。その時の彼らの目のおそろしさは十年以上を経た今でも、心に焼きついて忘れられません。父にも同様の苦労があったようで、犬を連れて父と散歩するとき、『こんな村からは引っ越してしまいたい』と、よくつぶやきました。そして、酒を飲んで悪酔いすると、その思いを暴力や暴言で家族にあたるようになりました。そんなとき私は、たいてい父のなだめ役を期待されましたが、『どうして私が、そんな役をしなくてはいけないのか!』とやりきれない思いでいっぱいでした。
そんな日々が続き、やがて小学校四年生になりました。そして学校へ行くのがつらくなりました。憂うつな気持ちが心を占め、友だちを傷つけてしまうのではと不安がでてきたからです。そんなことで、自分の部屋に閉じこもっていると、父が来て『どうして学校へ行かないのだ!』と叱責しました。けれど幼かった私は、自分のそのような気持ちを言葉で表せなくて、『理由はない』としか答えられませんでした。すると父は、無理やり私を家から引きずり出して学校まで連れていきました。私は、引きずられて足に怪我をしてしまいました。そして『これでは、家にいるほうが学校にいるよりつらい』と思って、一週間で学校に戻りました。しかし私の心の中には『どうしてこのような理不尽な目にあうのか』『何か父の気に入らないことをすると、理由もなくひどいことをされるのではないか』という不安が生まれ、父に対して率直に話ができなくなってしまいました。
またその一週間の間にこんなことがありました。私がこっそり家から出て、物陰に座っていると母と祖母が洗濯物を干しながら話をしていました。『あの子には、こまったものですね。どこかの施設にでも入れないとだめでしょうか』私がいないと思って話していたことですが、私はこれを聞いて、学校へ行かないと親から見捨てられてしまう、という思いを持ってしまいました。そしてそれ以来『何か悪いことをすると、親は私を見捨ててしまうのでは』と不安におびえるようになりました……」
Sさんは、その後中学生になってから、再び不登校になったが、そのときは、両親はとても理解のある対応で、責めたり、無理強いをすることはまったくなかったという。しかし、心には、この幼いときの記憶が深くしみこんで、今も親との感情的な葛藤で苦しむという。
私は、彼女のこの幼いときの記憶を総計六時間以上も聞いた。聞いている場所に、十字架のキリストがともにいて、この幼かったときのSさんのさみしさや理不尽さに涙を流していてくださることだけを思い、一心に聞いていた。すると自分自身の心の昔話が語られているような思いがし、私の心もいやされていくような不思議な感じがした。
私(筆者)の家にも複雑な事情があった。父と父の義理の母になる私の祖母の間には、いつも深い確執があり、私は幼い日々をいつもその間ではらはらと、両方の顔色を見ながら、不安やおびえを感じながら成長した苦しい記憶があるからだ。そのような記憶を、子どもの目からながめるとどのような風景となるかを、Sさんは生き生きと描写してくれた。
今Sさんは、二十歳近くになり、そのような幼い日の記憶は、テープレコーダーのように、確実に保存されている。そして今度は自分が親の立場となって、新しい家族を作ろうとするとき、親と同じ思考パターンや行動パターンを繰り返して、過ちの再生産をしてしまう。このことは、私自身の過ちだらけの家族の歩みを振り返っても、その通りだと認めざるをえない。
私は、そのSさんのかたわらで、「幼い日の記憶からの自由」というテーマを考えながら、彼女の心の自立に向かっての長い歩みを見守っていきたいと思う。