希望への道程
 アフガン難民学校の現場から
最終回 教育の意味を求め始めるとき

浜田文夫
燈台(アフガン難民救援協力会)現地代表

 アメリカで起きた同時多発テロはそれまで「世界で最も忘れられた国」、アフガニスタンの存在を世界に思い出させた。

 アメリカによるアフガニスタンへの空爆で、タリバン政権はあっけなく終わった。続くカルザイ政権の誕生で、アフガニスタンは国としてようやく機能し始めた。長く続いた戦いのためアフガニスタンの教育事情は速やかな対応が迫られる状況になっていた。また、タリバン政権が宗教教育以外の一般の教育を軽んじ、女子の教育を禁止したことが世界に報じられていたことから、国際社会のこの国に対する教育支援への関心は、すでに高まっていた。

 アフガニスタン教育省は早速学校の登録を受け付けた。隣国パキスタンにある「燈台」の難民学校も、イスラムの授業を教えることを条件に政府の認可を受け、国から公認された学校となった。これによって、学びを再開したカブール大学への進学の道が生徒たちに開かれることになった。

 2003年初めの受験に、前年の卒業生28名が挑戦し、全員が上位の優秀な成績で合格した。百人単位で受験した他校の合格者の数が一桁であったことを考えると、この結果は驚異的なことであった。アフガニスタンの教育関係者の間にヌール学校の名前が知れ渡った。教師も生徒も、またその両親と地域住民もそれを誇りとした。いま多くの国際援助機関がアフガニスタンでの援助を開始し、学校もたくさん建てられ始めた。

 しかしクエッタの難民たちは、世界がアフガニスタンを忘れていたとき、そしてまだ大学への道が閉ざされていたときから、「燈台」が高等教育の機会を与え続けてくれた成果がいま出たのだと言って、合格結果を喜んだ。我々は「燈台」の働きを自分たちの歴史の中に刻んで、忘れることはないと、その働きを評した。クエッタにある他の難民学校から大学受験のためヌール学校の高校に編入を希望する生徒たちが学校に押しかけてきた。

 20年以上に渡る戦争によって、教育に対するアフガン人の考え方は変わった。彼らがアフガニスタンの地方からパキスタンに難民としてやって来たとき、初めてそこで電気や自動車を見たという人たちが少なくなかった。こうして彼らは難民という劣悪な立場と状況の中で、初めて文明の香りをかぐことになる。パキスタンで女性が一国の首相になるのも見た。隣の、自分たちと同じようなイスラムの国でありながら、その大きな違いを肌で感じた。そしてこの違いがひとつには教育の違いであることに気が付くのにそれほど時間はかからなかった。

 かつて世俗の教育は信仰の妨げになるとして、イスラム指導者たちから政府の学校に行くことを禁止されると、人々はそれをそのまま信じて疑わなかった。そして両親はモスクの学校に子どもたちを送った。その子どもたちはやがてその学校でイスラム指導者から銃を持たされて、戦場へと送り込まれた。

 難民生活が長い人々は、20年の間にパキスタンが発展し続ける姿も見守ってきた。しかし自分たちの祖国は破壊と破滅を繰り返しただけだった。クエッタの難民の若者たちはもはやモスクに行かなくなっていたが、学校には絶えず学ぶ若者、入学や編入を希望する若者があふれていた。親たちはそれをよしとした。

 有力な地主のもとで土地を耕すことしか知らなかった小作人たちは、難民となって、耕す畑を失った。その子どもたちはよりよい仕事を得るために、高い教育が必要であることを知っていた。よりよい就職活動のためには英語とコンピューターが必須だと言われて、ブームが起こる。二年前から「燈台」の学校でも、就職に不利な女子生徒を対象にパソコンのクラスを始め、卒業後の職業訓練にも備えられるようにした。

 しかし、教育が万能でないことは、すでに日本が実証している。教育こそがアフガニスタンを救う唯一の道であるとはまったく思わない。タリバンがテロリストの温床とされたとき、モスクに併設される、タリバンを生み出した学校「マドラサ」(神学校の意味)が非難の的となった。「マドラサ」で洗脳され盲従することは教育のないことの結果だと多くの人が思った。だが、宗教と教育の場がひとつになること自体は、特別なことではない。ユダヤ教のシナゴーグもミッションスクールも礼拝と教育を大切なこととしてひとつの場に置いた。ただひとつとなった礼拝と教育が、真理を知り、真理に仕えるためでなかったことが、それを単なる洗脳のための手段にさせた。

 よりよい就職と給料のための教育であるならば、やがて物質的豊かさに洗脳される。だから何のための教育かを、彼らは問わなくてはならない。彼らがそれを問い始めたときに、はじめて真理への求道が始まる。その意味で、希望への道程はなお、つづく。