希望への道程
アフガン難民学校の現場から 第2回 政治的影響を受けない教育
浜田文夫
燈台(アフガン難民救援協力会)現地代表
カブールに住んでいた日本人のN氏は、カブール大学でアフガニスタンの公用語のひとつであるダリ語を学んだあと、在アフガニスタン日本大使館の現地採用職員として働いた経験を持つ。
N氏一家もソ連のアフガニスタン侵攻に伴い、隣国パキスタンへと逃れてきた。アフガン難民が多く住んでいるところに住居を選び、個人的に難民たちを助け続けた。ソ連の後ろ盾を得た共産政府軍とアメリカに支援されたイスラムゲリラとの戦いは終わる気配を見せないまま時が流れた。
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N氏は、多くのアフガン難民がいて、当時まだ、外国人がほとんど入ったことのないバルチスタン州クエッタに移り住んだ。N氏夫妻がそこで見たものは、多くのアフガン人の墓だった。土葬し、その上に土と小石を盛り上げる彼らの墓は、その大きさから、子どものものであることが一目で分かる。アフガン難民の五歳以下の子どもの死亡率は世界で二番目になっていた。食べ物の不足による栄養失調の上に、劣悪な衛生状態から来る下痢がその主な原因であった。N氏夫妻は日本の知人たちに呼びかけて、アフガン難民を助けるボランティア団体「燈台」をスタートさせ、クエッタに小児科のクリニックをはじめた。そこに毎朝、午前中だけで百数十人を超す患者とその家族とが、助けを求めてやって来るようになった。
病人について来た元気のいい子どもたちが、クリニックの庭で遊んだ。この子どもたちに勉強を教えたい、と言う元教師の難民を中心に学校が始まる。クリニックの庭にテントを張って、小学一年生から三年生までの三十数人の生徒たちが勉強を始めたのは一九八八年のはじめだった。子どもたちにとっては希望の光となるように、自分たちにとっては「世の光」となるようにとの思いから、現地で「光」を表すことば「ヌール」を取って、ヌール学校と名づけられた。
生徒は二年後には百人を超えたために、近くの民家を借りて校舎とすることになった。三年後には二百人を超えて、この年からボランティア貯金などの日本の公的援助を受け、中学校の学びも開始された。
アフガン難民たちは、パキスタンの公立学校に入学が許されない。私立の学校は学費が高く、入学できたとしても母国語で教育を受けることはできない。当時パキスタンにはいくつかのアフガン難民学校が存在した。その多くはイスラムゲリラの各組織が運営する学校か、あるいは、中国から支援を受けた学校で、いずれも生徒たちが政治的な影響を大きく受けることは避けられなかった。
ゲリラ組織が運営する学校は生徒たちにイスラム戦士としてアフガニスタンのために聖戦に参加して戦うことを教え、高学年の生徒たちは、そのまま所属するゲリラ組織によって、戦場へと送り込まれることもあった。一方で学校を純粋に教育の場として期待し、子どもを戦場に送り出したくない親たちが、自分たちの子どもたちを「燈台」の学校に送った。
この学校では宗教的にも政治的にも中立を保つことを定め、イスラムの授業を教えなかった。しかし、宗教的に中立であることがすでに反イスラム的であるとされ、各イスラムゲリラ組織からの干渉と圧力とを繰り返し受けた。そのたびに教師たちが学校を守った。
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N氏の後任として、私たち家族は一九九一年春からクエッタの働きの責任者となり、現地に赴任した。ソ連邦崩壊のニュースが世界を駆け巡り、翌年春、ソ連の後ろ盾をなくしたアフガニスタンの共産政権は簡単に倒れて、各イスラムゲリラ組織がアフガニスタンへと凱旋を果たした。約十三年続いたソ連及び共産政権との戦争がようやく完全に終わった。やがて暫定政府が作られ、平和がアフガニスタンに戻ってくることをだれもが期待した。
ところが、その期待は見事に裏切られることになる。イスラムゲリラの各組織同士が権力争いを始めた。それはほぼ、民族の対立の図と重なった。かくしてアフガニスタンは内戦へと突入し、難民が自分たちの国に帰還する見通しはいつまでも立たなかった。
難民がいる限り難民学校は継続された。生徒の数は年々増え、開校から六年目に高等学校の学びが始まることになる。
三十数人の子どもたちでスタートしたこの学校は、パキスタンにあって、アフガニスタンの公用語のひとつであるダリ語で学ぶことができる学校として、七年後には常時千三百人の生徒を抱え、小学校一年生から高校三年生が学ぶ大きな学校になった。しかし、これでアフガン難民の子どもたちの向学心が満たされたわけではなかった。(つづく)