希望への道程
アフガン難民学校の現場から 第3回 イスラムよりも世俗の教育を求めて
浜田文夫
燈台(アフガン難民救援協力会)現地代表
「燈台」のアフガン難民学校はアフガニスタンの学校の常識に反していた。男女共学、異なる各部族の混合、宗教を教えないなど、アフガニスタンでは考えにくいことだった。しかし難民という特別な事情がある程度それを許した。難民として職を奪われた医者や大学の教授、土木関係の技術者などの、アフガニスタンでの通常の高校教師の域を超えた、優秀な人材に恵まれたことが、この学校の非常識をカバーした。教師たちは純粋に一般の学問を教えることに力を注ぎ、この学校をアフガン人たちに魅力のあるものにした。ここで学ぶことを希望する子どもたちは後を絶たず、学年の変わり目は定員を超える入学希望者で学校があふれた。入学の順番を一、二年待つ子どもたちもいた。
ソ連のアフガニスタン撤退後、イスラムゲリラの各組織は、アフガン国内での権力争いに、より多くの力と財を費やし、彼らが運営していたクエッタの難民学校は次々に姿を消した。しかし「燈台」の難民学校はこの地に残って、難民たちに学びの機会を与え続けた。
一九九五年はじめての卒業生を送り出す。それはこの働きの一つの大きな結実であった。卒業は新たな旅立ちへの希望でもあるが、しかし同時に、彼らにとって学べる保障の終わりでもあった。進学や就職の道を見つけた生徒は少なく、多くの卒業生は毎日学校に通って学べるという最大の楽しみと目的とを卒業と同時にただ失うだけとなる。大学でのさらなる学びを希望する生徒たちがほとんどだったが、それはかなわぬ夢だった。彼らの学べぬ無念さは私たちの援助の限界を知る無念さでもあった。それでも、卒業後パキスタンで看護士の資格を取り、パキスタンの病院で職を得て、家族の生活を支える僅かな卒業生たちがいたことが私たちを慰めた。
アフガニスタンでは繰り返される政権交代のたびに、官僚をはじめたくさんの世俗のエリートたちが命を奪われ、あるいは海外へと難を逃れた。一方で、次の世代を担うエリートたちを育成する高等教育の機関は十数年の間ほとんど機能して来なかった。将来のアフガニスタンに技師や医者や教師が圧倒的に足りなくなるという危機感から、大学教育の必要性が叫ばれるようになるのは、もう少しあとのことである。しかし、すでに識字教育だけでは援助として不十分になっていたし、高校での学びも子どもたちにとっての最終目的ではなかった。
一九九二年に始まったアフガニスタン国内の内戦は膠着状態が続く。アメリカはもちろん、内戦のためにイスラムゲリラを支援することはなかった。イスラム諸国からの経済的支援も減った各イスラムゲリラ組織の兵士たちは、滞った給料を支払ってもらえなかった。やがてこうした兵士たちが盗賊化して、一般市民の日常生活が脅かされるようになった。また、単なる勢力争いに聖戦というイスラムの大儀を見出すことはできず、イスラムゲリラに対する一般市民の失望と嫌悪感が増して行った。それはイスラムそれ自体への失望へとつながった。そのような閉塞感を打開しようとする試みとして、真のイスラムを謳うタリバンの登場は、人々から歓迎され、一九九五年後半から翌年の前半にかけて、一気にアフガニスタン全土の八割以上を制覇することを可能にさせた。窃盗犯の手を切断するという厳格なイスラム法の執行は治安を即座に安定させた。しかし、公開処刑、音楽や娯楽の禁止、女子の教育や労働の禁止、またそれらを破ったときの厳しい処罰等、行き過ぎたイスラム法の徹底が人々を辟易させるのにもさほど時間はかからなかった。
タリバンを嫌って、新たな難民となる人々も出てきた。アフガン国内で、わずかな教育の機会さえも失った女子の中には、クエッタにある「燈台」の難民学校を聞いて、やってくる人たちがいた。タリバンの政策に反して、このころ「燈台」の学校に女子生徒と女性教師の数が増えた。当然の結果として、当時クエッタにあったタリバンの事務所から圧力を受けた。立場的には反タリバンのイラン系イスラム僧侶たちもこの学校をキリスト教の学校だと断定し、誹謗中傷を流し、これを潰すようにと金曜日の礼拝の場で説いた。しかしかつてイスラム僧侶のひとことで、学校が焼討ちにされたアフガニスタンの歴史が繰り返されることはなかった。生徒の両親や地域の住民たちはこれらのイスラム指導者らに聞き従わず、何度も学校を守った。
人々はイスラムの教えよりも世俗の教育を求めて、変わり始めていた。しかし難民としての現状とアフガニスタンの将来がどうなるかまったく分からない不確かな、そして不安な日々は続いた。それが一日にしてまったく予期せぬ展開になるとは、だれも知らなかった。