平和つくりの人 銃ではなく聖書を持って(1)

結城絵美子
フォレストブックス編集者

 今年五月、私は、戦争捕虜になった体験を持つ一人のイギリス人宣教師から、平和について忘れられない話を聞く体験を得た。

 現在七十六歳のスティーブン・メティカフさんは、その人生のちょうど半分にあたる三十八年間を、宣教師として日本で過ごした。来日は戦後間もない一九五二年。その六年前まで、中国で民間抑留者として、日本軍の収容所に入れられていた。

 十八歳で終戦を迎え、解放された時の体重は、四十キロに満たなかったという。

 憎んでも憎みきれないはずの日本へ、神の愛を伝えるためにやってきたメティカフさんの人生に何が起こったのか、そしてその体験を通して、平和についてどういう考えを持つに至ったのか、多くの時間を費やしてお聞きしたその話の一部を、ここにお分かちしたいと思う。

メティカフ一家。右・馬上の少年がスティーブン・メティカフさん。
中国の山奥に住む少数民族を訪問するために徒歩や馬で何日もかかった。

収容所で募らせた憎しみ

メティカフさんは一九二七年、中国雲南省で生まれた。父はイギリス人、母はオーストラリア人だが、二人とも宣教師として、雲南省の山奥にある少数民族の村で暮らしていた。

 家庭では英語を話し、外ではその民族の言語を話すという生活だったが、七歳になると、イギリス式の教育を受けるため、東シナ海に面するイェンタイという街の寄宿学校に入った。両親と離れて学校生活を送るうちに、時局は刻々と変わっていった。

 一九四一年十二月八日、日本軍によるパールハーバー攻撃は事態を決定的なものとし、翌一九四二年、メティカフさんが通っていた学校は、生徒も教師もそっくりそのまま、日本軍の民間人収容所に入れられた。十四歳の時だった。

 メティカフさんがいた収容所の日本兵は、傷病兵が多く、皆比較的おだやかな人たちだったという。食べ盛りの年頃にもかかわらず常に飢餓状態だったり、様々な苦労があったことはもちろんだが、彼自身が、直接暴力を受けるようなことはなかった。

 しかし、日本兵の中国人に対する振る舞いは残虐なことこの上なく、メティカフさん自身、首を切り落とされた死体、生きたまま両目をくりぬかれ、リヤカーに乗せられて引き回されている中国人を目撃した。こうした見るに耐えない光景を目にしているうちに、日本人に対する憤り、憎しみは膨れあがっていった。