往復メール kei Vol.7 楽器の話
那須 敬
国際基督教大学 社会科学科助教授(西洋史) JECA 西堀キリスト福音教会会員
電子楽器のカタログを見たり、かっこいい新製品が気になったりしていた十代は過ぎてしまったけれど、いまも楽器店に足を踏み入れるとワクワクする。コンサート会場でよく手入れされたピアノをさわったり、旅先の教会で古いオルガンを間近に見たりするときも同じ。楽器には、言葉にならない思いを注ぎ出させる何かがあるよね。
ピアノを弾けるようになったのは、週一回しか行かないちょっと変わった幼稚園の音楽教育と、その後もレッスンに通わせてくれた親のおかげ。「毎日練習する」と約束して、自宅にピアノを買ってもらったときは嬉しかった。それまでは誰もいない教会でそっと練習していたからね。とはいえ、子どもだから毎日独りでする練習はなかなかつらいわけ。それでもやる。スポーツだって言葉を覚えるのだって同じだけど、コツコツやる先に自由があるってことは、そうやって知った。まだ「自在」にはなれないんだけどさ。
教会史を見ると「信仰者に楽器は必要か」という問いは、実はなかなか深刻な神学問題でもあったんだ。「ダビデの竪琴」か、それとも「やかましいどら」か! 教会音楽のシンボル、パイプオルガンだって、イギリスでは「聖書的でない」という理由で取り壊された歴史がある。今日も、礼拝にふさわしい楽器をめぐって、いろいろな意見の違いがあるだろう。
でも、大切なのは特定の楽器の善し悪しよりも、それを通して人が何をするか、何があらわれるか、だよね。英語のインスツルメンツ(楽器)という言葉は、「道具」「手段」という意味でも使われる。信仰者の人生が神さまの手段であることを願うように、僕らも道具としての楽器に思いを込める。そのとき、弦の響きは祈りにも、感謝にも、嘆願にもなる。これは独りでも、合奏でも同じ。ましてや礼拝で楽器を演奏するときは、全身全霊を打ち込んで臨みたいと思うよ。