恵み・支えの双方向性 第1回 受け身の誕生
柏木哲夫
金城学院 学院長
淀川キリスト教病院 名誉ホスピス長
〈生むと生まれる〉
親しくしている後輩が「長女に赤ちゃんが生まれました。初孫です」とうれしそうに報告してくれました。彼は「長女が赤ちゃんを生みました」とは言いませんでした。赤ちゃんの誕生は「生まれた」という受け身で表現されます。普通、母親が赤ちゃんを「生んだ」という能動的な表現はしません。昔から「子は授かりもの」という言葉がありますが、子どもは授かるもの、与えられるものという感覚が私たちの心にしみついているのかもしれません。
人間の赤ちゃんに対して、ニワトリの卵はどうでしょうか。「卵が生まれた」とは決して言いません。「生み立ての卵」というように「ニワトリが卵を生んだ」のです。卵は授かったものではなく、生んだものなのです。という表現がそれを私たちは何の躊躇もなく、卵を割ったり、焼いたり、売り買いしたりします。卵に「生命」の存在をはっきりとは感じていないから、そうできるのかもしれません。ヒヨコはどうでしょうか。ヒヨコが卵から生まれるとは言いません。ヒヨコは孵る(孵化する)と言います。私たちは孵ったヒヨコを殺して食べたりしません。ヒヨコに「生命」を感じるからでしょう。
日常何気なく使っている言葉に意識的に注意を向けると、少し洞察が深まったり、視野が拡がったりするものです。人間の誕生を「生まれる」と受け身の表現をすることから、人間をこの世に存在させた超自然的なものがあることをうかがい知ることができます。言葉は本当に面白いものだと思います。文字一つの違いで方向性や概念が変わることがあります。その例について述べてみたいと思います。
〈それでも人生はイエスという〉
オーストリアの精神科医ヴィクトール・フランクルの著書に『それでも人生にイエスと言う』(山田邦男、松田美佳共訳、春秋社)があります。人間は不治の病気や事故、経済的困窮、死別体験、さらに強制収容所に入れられるというような、とてもつらく、悲しく、耐え難い状況においても人生にイエスと言うことができるというのが、この書物の主要な内容です。訳者の山田邦男氏は、自らの著書『フランクル人生論――苦しみの中でこそ、あなたは輝く――』(PHP研究所)の中でとても興味深いエピソードを紹介しています。講演を依頼された山田氏を、司会者が『それでも人生はイエスと言う』の翻訳者として紹介したそうです。正しくは『それでも人生にイエスと言う』なのですが、やがて山田氏はこれが単なる誤りではなく、重要な意味があるのではないかと思い始めたそうです。氏がフランクルにこの話をしたところ、フランクルは両方が大切だと言い、「人生にイエスと言う」は運命に対して肯定的な態度をとるという主体の側の問題であり、「人生はイエスと言う」は人生(世界、超越)という客観の側の問題で、二つは相互に表裏一体をなしているわけだと付け加えたそうです。私たちは、たとえどれほど絶望的に思える状況の下でも、人生にイエスと言えると同時に人生は私たちを決して見捨てない、すなわち、人生はイエスと言うわけです。
「に」と「は」の一字違いで物事の方向性が変わるというのはとても興味深いですね。人間が人生にイエスと言う方向性と、人生が人間にイエスと言う方向性、すなわち双方向性があるということです。もう一つ、文字一つの有無で意味が変わる例を挙げてみます。〈いのちへのまなざし〉
二〇一三年に『いのちへのまなざし』(いのちのことば社)という書物を上梓しました。ホスピス医として多くの「いのち」を診てきた経験をもとにして、私が人の「いのち」にどのようなまなざしを向けてきたかをまとめたものです。また、「いのちである神様」に私がどのようなまなざしを向けてきたかも付け加えました。出版後まもなく中国地方のある教会から講演を依頼され、その題を「いのちへのまなざし」としました。
講演の日が近づいたとき、教会から講演会の案内のチラシが送られてきました。講演の題が「いのちのまなざし」となっていたのです。「いのちのまなざし」というのは、「いのち」である神様が私たちにどのような「まなざし」を向けておられるかということです。「いのちへのまなざし」は、私たちが人の「いのち」に対して、また「いのち」である神様に対してどのような「まなざし」を向けるかということです。私は、「いのちへのまなざし」と「いのちのまなざし」の両方が大切なのだと教えられました。