恵み・支えの双方向性 第11回 上を見る、神を見る

柏木哲夫
金城学院 学院長
淀川キリスト教病院 名誉ホスピス長

〈最後の希望〉

ホスピスという現場で約二五〇〇名の患者さんを看取りました。その中で、最後の希望を実現して死にたいと思う人がかなり多いことを知りました。回診の終わりに、「今何が一番したいですか?」と尋ねます。「もう一度富士山へ登りたい」、「ゴルフがしたい」……両方とも実現は不可能です。「風にあたりたい」、「みどりに触れたい」……両方ともすぐに実現できます。
ある中年の女性患者が「もう一度弘前の桜を見たい」と言いました。きっと特別の思い出があるのでしょう。病状はかなり進んでおり、常識的に考えると、とても旅に出るような状態ではなかったのですが、ご本人の強い希望に加えて、友人三人が付き添うというのです。スタッフのミーティングで話し合い、行ってもらうことにしました。
患者さんは二泊三日の旅に出ました。無事帰って来たその患者さんはかなり疲れていましたが、何かすっきりとした表情でした。そして「これで旅立てます」と言いました。一週間後に静かに旅立ちました。
最後の希望は千差万別です。すぐに実現できるものから、とても実現が無理なものまで実にバラエティーに富んでいます。

〈スピリチュアリティ(霊性)の覚醒〉

多くの患者さんの最後の希望を聞いてきて、私は、ごく平凡な小さな希望の背後に深い意味が込められていることに気づきました。「みどりに触れたい」と言った患者さんは、そうすることによって、みどりの向こう側にある超自然的な存在に思いを馳せているのかもしれません。
それはスピリチュアリティ(霊性)の覚醒ということです。これに関して窪寺俊之先生(聖学院大学教授、元淀川キリスト教病院チャプレン)は『スピリチュアルケア学概説』(三輪書店)の中で次のように述べておられます。
「死に直面すると、患者は平常時よりも敏感になり感覚的になる。そして、不安、恐怖、いらだち、孤独感、無力感などが増大する。また、健康な時には無視してきた超自然的な出来事にも敏感になる。また、生きる意味や目的などへの関心が鋭敏になる。このような傾向が超自然的な事柄や超自然的存在への関心を深めさせ、スピリチュアリティ覚醒の動員になる。」

〈ブラウン先生の信仰〉

このスピリチュアリティの覚醒に関して、淀川キリスト教病院の初代院長ブラウン先生(一九八一年脳腫瘍のため召天)からいただいたお手紙が思い出されます。亡くなる三か月ほど前のものです。「このごろ毎日、朝夕散歩をしています。道端に咲いている小さな花を立ち止まって、かなり長い間、じっと見つめます。元気な時にもよく散歩しましたが、道端の小さな花を長時間見つめることはしませんでした。残り時間があまりないことがわかった今、小さな花は私にとってとてもいとおしく、特別の存在になりました。この花のいのちも私のいのちも神様の御手の内にあると思うと、いとおしさがこみ上げてくるのです。夜、ベランダの椅子にもたれて星を眺めます。あの星のずっとずっと向こうに神の御国があるように感じます。私はもうすぐそこで神様とお会いします。ですから死はちっとも怖くありません。」
ブラウン先生はお元気なころからとても信仰深い方でしたが、死を身近に感じられたときに先生の神への思いがとぎすまされたように感じました。先生は道端の小さな花の向こうに、そして、きらめく星の向こうに神様を見ておられたのだと思います。

〈上を見る、神を見る〉

元気に日々を過ごしているとき、人の視線は前と横にしか注がれません。たまに後ろを振り返ることがあるかもしれませんが、少なくとも頻回に上を見ることはありません。しかし、病気で入院していると一日中、上を見ています。私もこれまでに二度入院した経験があります。入院中、ベッドでずっと上(神)を見ていました。元気な時には、いかに上(神)を見ることが少なかったかを思い知らされました。上を見るということは神を見るということです。病気という体験はスピリチュアリティの覚醒につながります。回復可能な病気での入院でもそうなのですから、不治の病気で入院する場合、スピリチュアリティは覚醒せざるを得ないわけです。病気の時だけではなく、元気な時にも上を見る習慣を身につけたいものです。