恵み・支えの双方向性 第14回 寄りそう心

柏木哲夫
淀川キリスト教病院理事長

〈寄りそわれた人の感謝と安らぎ〉
「支える」は下から、「寄りそう」は横からという方向性のことを書きました。寄りそってもらった人はどんな気持ちになるのでしょうか。「感謝と安らぎ」だと私は思います。具体的に書いてみましょう。「寄りそう」ということに関して、JALの客室乗務員が実際に経験したことです。
彼女が客室乗務員として勤務していたある日のこと、飛行機の入り口まで高校生と思われる男の子がおばあさんの手を引いてやって来ました。彼女は孫だろうと思いました。女の子がおばあさんの手を引くのは普通だけれど、男子高校生にしては珍しいと感心して見ていました。おばあさんは前のほうの座席に座りましたが、高校生はずっと後ろの席に座りました。彼女はひょっとすると孫ではなかったのかと思い、おばあさんに「お孫さんではなかったのですか?」と尋ねました。やはり孫ではなかったのです。おばあさんの答えを要約しますと、待合室の椅子に座って待っていると、搭乗案内のアナウンスがあったので、立ち上がろうとしたとき、ちょっと足がもつれて、体がふらつきました。近くにいたあの子がすぐに駆け寄ってきて、「大丈夫ですか?」と声をかけてくれました。その時には私はもうちゃんと立っていましたので、「ええ大丈夫。ありがとう」と言いました。あの子はすかさず、「僕が手を引いてあげましょう」と言って飛行機の入り口まで連れて来てくれたとのことでした。
座席に座ったおばあさんはこの子の行為に感謝したことでしょう。それと同時に、ホッとした安らぎを感じたのではないでしょうか。おばあさんはこの子が手を引いてくれなくとも、自力で飛行機入り口まで歩けました。しかし、この子が寄りそってくれたおかげで安心して歩けました。そして、きっと心が温かくなったに違いありません。

,b>〈片足閉眼立ち〉
寄りそうことの効果を科学的に実証した実験があります。結論的に言いますと、だれかに寄りそってもらうと、片足閉眼立ちの時間が延びるのです。眼を閉じて片足で立つのはかなり難しい課題です。その時にだれかがそばに寄りそってくれていれば(物理的に接触はしない)、立っている時間が延びるのです。接触はしないので、時間が延びるのは物理的、身体的な理由ではなく、だれかがそばに寄りそってくれているという精神的安心感からくるものと考えられます。手を引いてもらったおばあさんは引いてもらわなくても歩けました。しかし引いてもらうことで「感謝と安らぎ」を経験しました。片足閉眼立ちは寄りそう人がいなくてもできます。しかし、寄りそう人が存在することで、長く立つことができ、寄りそう人の力を実感できました。

〈寄りそう人の心〉
支える人と寄りそう人の心に違いがあるように思います。支える人の心には、「この人は支えが必要で、私が支えてあげないと倒れてしまう」とか、「支えないと下に落ちる」といった気持ちがあります。それに対して、寄りそう人の心には「この人は私が寄りそわなくても自分の力で進んで行けるけれども、寄りそってあげるほうがきっとその道はスムーズだろう」という感じがあると思います。その一つの例が東日本大震災のために現在も仮設住宅暮らしを余儀なくされている方々への寄りそいです。仙台近くで活動している「こころの相談室」を訪れたとき、「寄りそい人」がほしいと聞きました。仮設で寂しい思いをしている人々に寄りそって話を聴く人が不足しているというのです。仮設で生活している人は寄りそう人がなくても何とか生きていかれるでしょう。しかし、寄りそう人があれば、日々の暮らしに潤いが加わるでしょう。

〈交わりがある旅立ち〉
ホスピスケアにおいても支えることと寄りそうことは大切です。強い痛みがあるときは、そっと寄りそうことよりも、適切な鎮痛薬の投与や他の医療手段で支える必要があります。患者さんの衰弱が進み、死が近づくにつれて、寄りそうことが必要になります。ベッドのそばに座り、手をさすりながらじっと寄りそうことが唯一できることになる時期があります。患者さんはだれかがそばに寄りそっていれば、旅立つ力を持っておられると私は思っています。旅立ちはひとりですが、その旅立ちに寄りそう人がいることによって、「交わりのある旅立ち」が実現します。