恵み・支えの双方向性 第16回 七転び八起き
柏木哲夫
淀川キリスト教病院理事長
「NHK子ども科学電話相談」というラジオ番組があります。主に小学校低学年の子どもたちが電話で質問し、専門家が答えるという番組です。先日、車を運転しながらこの番組を聞いていました。ときどき、とても鋭い、ユニークな質問があります。その日の質問は、「『七転び八起き』という言葉があります。僕はためしてみました。七回倒れてそのたびに起き上がりましたが、起き上がったのは七回でした。なぜ『七転び七起き』ではなくて、『七転び八起き』なのですか」というものでした。回答者がどう答えるかとても興味があったのですが、車が目的地に着き、出迎えてくださる人がいたので、残念ながら答えを聞くことができませんでした。
その後もなぜ「七転び八起き」なのかが気にかかり、インターネットで調べてみました。そして、多くの説があることがわかりました。ごく常識的な説明は、「多くの失敗にもめげず、そのたびに奮起して立ち直ること。転じて、人生には浮き沈みが多いことのたとえ」というものです。ある牧師の説明が気に入りました。少し長いのですが、引用します。
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「『七転び八起き』、ななころびやおき、自力再生、日本人の好きな言葉である。何回失敗しても、それに負けず勇気を振り絞り、ふるい起きることができる、頑張りがすきな日本人ピッタリである。しかし、七回しか転んでいないのに、どうして八回も立ち上がる必要があったのだろうか? 七回でいいのではないか? これは前提が初めから倒れているにある。赤ん坊をみればわかる。赤ん坊は最初ハイハイもできぬ。しかし、最初だれかに手を貸してもらい立ち上がる。人間は最初倒れた状態。だから 八回起き上がる必要がある。
聖書には別の箇所で、『主(神)はかがんでいる者を起こされる』(詩篇一四六・八)とあるように、倒れていても、ダウン状態でも、神が手を貸してくれる、助けてくれる、七転び八起きにはそんな意味がこめられている。七転び八起きは自力再生、自力救済の意味でなく、むしろ神が助ける、神に任せる、他力救済をすすめたのが、聖書である。自分で立ち上がれなくとも大丈夫、無理しなくも頑張らなくてよい、大丈夫なのである。」
この牧師はこの説明の後に、「神に従う人は七度倒れても起き上がる」(箴言二四・一六、新共同訳)という聖書のみことばを引用しておられました。
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「七転び八起き」という言葉は、二つの意味で私にはとても興味があります。一つは、前述した人間の誕生の特徴との関連です。他の哺乳類とは異なり、人間は自立歩行ができるまでに約一年間かかります。この間、いわば転んだ状態で過ごすのです。この一年間はたましいの成熟のために必要なのではないかと前に述べました。そして自立歩行の第一歩が一回目の「起き」とすると、その後七回転んで七回起きると、最初の「起き」を加えると、「七転び八起き」となるのです。
もう一つは、「七転び八起き」の自力性と他力性です。日本人の常識的な解釈は、長い人生にはいろいろな浮き沈みがあり、失敗しても起き上がる努力をすることが大切であるという教えだというものです。
しかし、前述の牧師は自力再生、自力救済の意味でなく、神が助ける、他力救済のすすめだと言われます。しっかりと神に従っておれば、神様は七度倒れても、助けて、起き上がらせてくださるというのです。
同じ言葉が反対の意味に用いられることは、かなりの頻度で存在するようです。例えば「転石苔むさず」は「転がる石には苔が生えません。そこで私たちは、じっとせず落ち着きのない人は結局大成しない」という意味に使います。英語にも、直訳のことわざ「A rolling stone gathers no moss」というのがありますが、おもしろいことに、イギリスとアメリカではこのことわざのとらえ方が正反対です。イギリスでは日本と同じ意味、すなわち「石の上にも三年」的に使われますが、アメリカでは「常に活動的な人には苔のような汚いものがまとわりつかない」という意味になります。
そういえば、君が代に「……苔のむすまで」という一節があります。古い歴史をもつ国では、苔が「歴史的重み」の意味に使われる反面、変化を尊ぶ新興国アメリカでは苔がアカのようにしか見られておらず、価値観念の違いが対照的です。