恵み・支えの双方向性 第7回 癒しと方向性

柏木哲夫
金城学院 学院長
淀川キリスト教病院 名誉ホスピス長

〈人生~人として生まれ、人として生きる~〉
還暦を過ぎてから、言葉にこだわるようになりました。言葉にこだわると新しい洞察が生まれたり、視野が広がったりします。例えば、「人生」という言葉をじっと見ていると、「人として生まれる」という言葉に見えてきます。もうしばらくじっと見ていると、「人として生きる」とも見えてきます。では、他の動物ではなく人として生まれるというのはどういうことかというと、人は魂を持つ存在としてこの世に生を受けるということだと思います。魂を持つがゆえにスピリチュアルペインを感じ、スピリチュアルケアが必要になるのです。
では、「人として生きる」ということはどういうことかというと、二つの側面があると思います。一つは、存在の意味や生きる意味を考えながら生きるのが人生であるということです。もう一つ、「死」を視野に入れて生きていく、それが人生であると思います。聖書の創世記(二・七)に人間の創造の記事があります。その中に「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」とあります。いのちの息とは魂のことです。魂は人間だけに与えられています。人間と動物の違いを示す要素は三つあり、宗教・自殺・音楽(芸術活動)だと思います。これらはすべて魂が関係します。宗教は魂が悟り、存在の意味を教え、自殺は魂が病んで存在の意味を失うこと、そして音楽は魂に響き、存在の意味を感じさせるものだと思います。

〈存在の意味を伝える〉
ある大学で「いのちの教育」という題で講演をしたことがあります。その中で私は「宗教は存在の意味を教えるものだと思う」と言いました。講演の後で一人の教授が「宗教は存在の意味を教えるというより、伝えると言うほうがいいと思う」とコメントしてくれました。その理由について彼は何も言いませんでしたし、私も尋ねませんでした。私は「教える」と「伝える」の差について考えてみました。「教える」は一方的、権威的な感じがあり、「伝える」は一方的ではなく、伝えた内容について、相手の反応を確かめ、時には質問を受け付けるというようなニュアンスがあります。すなわち、コミュニケーションが成立するのです。
「伝道」という言葉は文字どおり道(教義、教え)を人々に伝えることです。伝道活動には双方向性のコミュニケーションが必要です。
イエス様がこの世でなされた三つのことは、教育(教える)、伝道(宣べ伝える)、癒やし(いやす)だと言われます。そのことを示す聖書箇所は「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ九・三五、新共同訳)です。
物事の方向性からすると、「教える」は一方的、「宣べ伝える」は双方向的です。「癒す」はどうでしょうか。イエス様が癒されるという意味では、一方的なニュアンスが強いのですが、聖書をよく読んでみると、癒やしに関する方向性の点で興味深いことがわかります。

・ 一方的な癒やし
マタイの福音書一九章二節には、「大ぜいの群衆がついて来たので、そこで彼らをいやされた」とあります。群衆がついて来たのは、癒やしを求めてではありませんでした。イエス様を慕ってついて来た群衆の中で癒やしを必要とする者を、イエス様は一方的に癒されたのです。この癒やしの方向はイエス様から人へです。

・求めたがゆえの癒やし
 マルコの福音書五章二五―三四節には、十二年間長血を患っていた女の癒やしの記事があります。彼女はイエス様の着物に触ればきっと治ると考え、群衆の中に紛れ込みイエス様の着物に触り、癒されました。人からイエス様に向かった強い「求め」が癒やしを呼びました。

・相互作用による癒やし
ヨハネの福音書五章三―九節には、三十八年もの間、病気にかかっていた人が、イエス様に「よくなりたいか」と声をかけられ、自分の望みをイエス様に伝えた結果、癒されたことが書かれています。この癒やしはイエス様から人へ、人からイエス様への双方向性のコミュニケーションによって成立したものです。このように「癒やし」という一見、一方的な現象の中にも方向性という要素があるということはとても興味深いことです。