戦争の記憶 Ⅱ 「次世代の責任」 ◇継承の始まりは「考える」こと

朝岡 勝
日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会牧師

筆者は四十代ですが、この世代は、戦時中に生まれた親を持つ最後の世代にあたるのではないでしょうか。私の亡き父は一九三六年(昭和一一年)、日本が侵略支配していた当時の朝鮮半島に生まれ、戦後引き上げてきた世代であり、母は一九四一年(昭和一六年)六月二十四日、あの日本基督教団成立の日に誕生しました。母方の祖父は、翌年のホーリネス教団一斉弾圧のときに逮捕拘留された経験を持っており、幼いながらに、そのような体験談を聞かされたことが強く心に残っています。
しかし、自分自身を振り返ってみると、戦争中の日本の教会の被害者性のみを見ていたにすぎなかったのです。
やがて、十代の終わりに渡辺信夫先生の『教会論入門』という小さな書物と出会ったことが大きな契機となって、W・ニーゼルの『教会の改革と形成』、O・ブルーダーの『嵐の中の教会 ―ヒトラーと戦った教会の物語』、ボンヘッファーの生涯を通してドイツ告白教会闘争について知るようになります。また、金田隆一先生の『戦時下キリスト教の抵抗と挫折』(以上すべて新教出版社)を通して、日本の教会が自ら進んで天皇制国家に順応していった姿を見せられ、さらに韓国の殉教者朱基徹牧師の信仰と生涯に触れる経験を通して、アジア隣国に対する加害者性、偶像礼拝への妥協と敗北の問題を大きな衝撃とともに知らされるようになりました。
いずれにしても、これらは書物という形をとりつつも、かつて戦争を経験した世代の方々がその責任を自らに引き受ける仕方で、実存をかけて取り組んでこられた〝罪責継承”の実りということができるでしょう。しかしそれらは、後に続く世代の者たちが手を伸ばして受け取ることをしなければたちまち途絶えていってしまうものです。
では、直接に戦争を経験していない世代の私たちがどのようにしてその経験を受け取り、受け継ぐことができるのでしょうか。
渡辺信夫先生は『教会の戦争責任・戦後責任』(信州夏期宣教講座編/いのちのことば社)に収められている講演「戦争体験・戦争責任・戦後責任」の中でこう語っておられます。
「『戦争経験が継承されていない』と慨嘆する声が聞こえます。私は経験者として申しますが、私の経験を他者が継承すべきだとは思っていません。そもそも、経験というものはその人一代限りのもので、口から耳へと伝えられた伝承は、もはや体験ではないのです。それは別の価値を持っています。それが別のものだという理解がないと、不毛な議論になります。実際、多くの不毛な議論が重ねられ、人々は聞き飽きて忘れ去り、これではいけないと思う人は苛立って疲れはてます」(一一頁)
「では、経験ではなく、何を積み上げていくべきか。それは『考える』こと、『思索する』こと、『思想の質を高める』こと、経験していないことを『想像力によってとらえる』こと、『神の前に立つ』こと、その思いの集中、その努力なのです。経験がなくても、このように考えることはできるでしょう」(一三頁)私たち戦後世代のキリスト者がすべきこと、それはまさに〝戦争の罪性”と〝教会の罪責”を神の御前に正しく思想化し、体得することにほかならないのだと思うのです。

※この日以降、日本のプロテスタント教会は天皇をあがめ宮城遥拝を行うとした。