戦争を知らないあなたへ ◆「戦争の日々」と「非戦の志の日々」

渡辺信夫
日本キリスト教会 教師

私の長い生涯を短くまとめてみますと、「戦争の日々」と「非戦の志の日々」、この相反する生き方をしていた二つの時期に区分されるように思います。後者は聖書の言葉を引いて「平和ならしむる者であろうとする日々」と言い表すほうが適切でしょう。転換点は一九四五年八月十五日、日本が無条件降伏した日で、私は二十二歳でした。その日までの二十二年の人生は、結果としては死ななかったのですが、戦争で死ぬために生きていました。そして、それ以来の六十六年は平和のために生きました。
……人生が二つに区分されると言い切るのはあまりにも単純で、乱暴ですが、作り話や誇張ではありません。その日まで、「自分は戦争で死ぬのだ。戦争で死ぬために自分は生きているのだ」、あるいは「戦争で死ぬ備えとして今日を生きるのだ」と生を意味づけ、自分にそう言い聞かせていました。
「意味づけられた」と記しましたのは、受け身の表現ではありません。自分で納得し、選択し、そのような意味づけをしていたのです。若い方々にはわかりにくいでしょうが、当時の青年としては、特別な生活意識ではありません。特攻隊がこれの典型ですが、死が近いことを日夜感じていたのです。
私が戦争遂行を積極的に主張していたと言うのではありません。軍国主義とは距離を置こうとし、異なる原理で生きているつもりでした。ただし、戦争だけに意義があるという考えが支配する世に、抵抗することは何もしておりません。数歩遅れてついて行きました。ただし、はなはだしく遅れることはないようにしていました。
八月十五日以後は、戦争に抗し得なかったそれまでの生き方を恥ずかしく感じ、悔い、これからは平和を造り出す者として、戦争否定に徹して生きようと覚悟するように切り替えたのです。
そんなにハッキリ違う生き方ができるのか? 
……実際、人間の生涯を一枚の紙にたとえ、表のページと裏のページだけですべてだと言い切るのは無理です。しかし、一つの生き方が突如として逆の生き方になるという事実はあるのです。
『戦争で死ぬための日々と、平和のために生きる日々』
渡辺信夫著
B6変形判1,100円+税
いのちのことば社