戦争を知らないあなたへ ◆日本と京城、二つの故郷

三好蔓亀
日本アライアンス呉教会教会員

終戦一年前の一九四四年、私は結婚を機に満州へ行くことになりました。主人となる人は、学生時代に信仰をもったクリスチャンでした。嫁ぎ先が遠い満州ということでしぶっていた父でしたが、信仰をもっている人なら大丈夫だろうということで、結婚に賛成してくれました。
主人の恵一は、牡丹江省の鶏寧(現黒龍江省の鶏西市)で土木技師として働いていましたが、終戦間際の一九四五年五月に関東軍総司令部に召集されました。戦況が深刻になっていることは知っていましたが、朝鮮半島では空襲もなく、私はB29を見たことすらありませんでしたので、まさか日本が負けているなどとは思ってもいませんでした。敗戦の気配をまったく感じないまま、一時的に京城の実家に戻っていた私は、主人から奉天まで来るようにとの手紙を受け取り、奉天にいる親戚の家でお世話になっていました。その奉天で、広島、長崎のピカドン(原爆)について聞いたことを覚えています。
そして、終戦の二日前の八月十三日に主人が、大石橋に住居を見つけたからということで迎えに来てくれ、急きょ移動し、そこで八月十五日の玉音放送を聞いたのでした。
開拓団の人たちが引き揚げ時に、これからどうするべきかなどを教えてくれました。それから、北のほうから逃げてきた人たちだと思いますが、屋根なしの貨車に乗っている人たちも多く見かけました。それで、日本人は本国に帰らなければならない、という命令が出ていることをやっと知ったのです。日本人の家が襲撃され始めていたのです。
私も軍にいた主人から、「ひとりで日本に帰れ」という伝言を受け取り、覚悟を決めて酢飯のおにぎりとお茶を持って家を出ました。小さなリュックサック一つしか持たずに、その他すべてを家に置いていかなければならないのは、泣いても泣ききれないような思いでした。
……主人と再会して、駅のホームで朝鮮行きの列車を待っていました。その向かいのホームに「水原行き」と書かれた軍用貨車が入ってきました。主人は、三十人くらいの兵士たちが乗っているその軍用貨車に走り寄り、京城まで私を乗せてくれるよう中隊長さんに頼んでくれました。そして、私ひとりだけを軍用貨車に乗せて、主人は満州に残ったのでした。その後、主人は朝鮮と満州の間を流れる大きな川、鴨緑江を泳いで渡っているところをスパイと間違えられて捕まり、終戦の二年後に、日本に引き揚げることになります。一方、軍用貨車に乗せてもらった私は、二日間かかって実家のある京城に帰ることができました。私が乗った軍用貨車が発った二、三日後には、北緯三十八度線はもう通れなくなっていたと記憶していますので、本当にきわどいところでした。
もし、軍用貨車がなかったのなら、日本までの引き揚げには一年以上かかり、その間のお金もなかったので途方にくれていたと思います。そう考えると、あの時軍用貨車に乗せていただけたことは、本当に不思議な計らいでした。
私の実家のあった朝鮮南部からの引き揚げは比較的楽でしたが、北部からの引き揚げは悲惨だったようです。女性は全員坊主にして集団で移動し、女を差し出せと言われたら誰かが犠牲になる。そのようにして、文字どおり死ぬ思いで引き揚げてきたと聞いています。
京城にいた両親は、ソ連軍の攻撃のこと、北からの引き揚げのことを聞き、満州にいる私のことをとても心配していたそうです。父は、「こんな思いをするぐらいなら、満州なんかに嫁に出さなければよかった」と嘆き、母は、満州からの引き揚げ列車が通るたびに、店の味噌を具にしたおにぎりを作って、店の印が入ったうちわを持って駅に通ったそうです。
……そのような状況で、私が無事に京城に着いたとき、家族は本当に喜んでくれました。母は、「今日、私はあんたを抱いて寝る」と言って、その晩、私は小さな子どものように母の腕に抱かれて眠ったのでした。
(『子どものとき、戦争があった』より一部抜粋)

『子どものとき、戦争があった』
いのちのことば社出版部編
A5判1,200円+税
いのちのことば社