戦火をくぐり抜けたクリスチャン
餓死寸前の抑留所で母子を支えた信仰
タンゲナ鈴木由香里
『母への賛歌』訳者
日本人の皆さんこの作者の声を聞いてください
この本は、当時二歳だった著者のファン・ラールテさんが、三十歳になったばかりのお母様と四歳のお姉さん、生後十か月の妹さんと共に日本軍俘虜抑留所で過ごした三年間の物語です。時は、第二次世界大戦中、日本に占領されたオランダ領東インド(現在のインドネシア)で、一九四二年~四五年に、非戦闘員であるにもかかわらず日本軍に収容されてからオランダに引揚げるまでを、子どもの目を通した著者自身の記憶と、お母様からの聴き取りをもとに、生き生きと描写しています。彼女たちは、日本兵たちの非情で容赦ない管理の下で、ゆっくりとしかし確実に餓死に向かってゆく体験をしなければなりませんでした。しかし、そのような、将来に光の見えない暗黒の状況の中でも、幼い子を抱えた母親たちの生きていこうとする意志は、変わらず強く、苦しみや辛さをも、時に笑い飛ばすほどの精神力の強さを持っていました。ほとんど何も無い中で、ありったけの努力と工夫を凝らして、子どもたちにできるだけ普通の生活を送らせようと一生懸命でした。餓死と背中合わせに生きていた母親たちが、明日生きているかどうかさえ分からない子どもたちを、必死にきちんとしつけていた様子に感動を覚えます。 人を悪く言うのを子どもたちに聞かせないよう、日本兵の悪口を言うことを避ける努力や、毎日、時間と心を子どもたちだけのために注ぐ夕べのひととき、日曜日には、ぼろきれでもきれいに洗ったテーブルクロスを、テーブル代わりのスーツケースの上にかけ、錆びたミルクの缶に雑草を生けたという心意気。私は自分も母として、これほどに心を遣いながら子どもを育ててきただろうか、と反省するばかりでした。
十年ほど前、ヴィム・リンダイヤーさんという方と出会いました。やはり抑留所で子ども時代を過ごし、そこで最愛のお母様をなくされた方でした。彼のお母様は、彼が必ず日本人に仕返しをしてやるという言葉に、「心に憎しみを抱いている者は、人を愛せないよ」という言葉を残して逝かれましたが、彼は日本人に対する憎しみを溜めながら成長しました。しかし、あるとき、その母の言葉を思い出し、自分こそ今まで憎んできた日本の人たちに赦してもらわなければならないと示されたそうです。以来何度も日本に足を運び、話を請われるたびに、日本人を憎んでいたことについて、赦しを請うようになりました。 私は三十年ほど前にオランダ人と結婚し、オランダに住むようになりました。当時の私にとってオランダという国は、チューリップや風車の国、また、フェルメールやゴッホの国、そして鎖国時代に出島で江戸幕府が通商を許していた唯一の西洋の国という理解しかありませんでした。
ところがあるとき、友だちのお母様が突然、彼女のインドネシアでの抑留所体験をとうとうと話されたことがありました。また他のオランダに住む日本人の友人たちも、同じような経験をしていました。自分の傷を指して、これは日本兵に痛めつけられた傷跡なのよ、と見せられた方もいました。最近ではそんな話はほとんど聞かなくなりましたが、当時は日本人といえば残虐で、すぐ怒鳴り散らして殴る、というのがオランダ人の持っていた一般的日本人のステレオタイプでした。私は、静かにできるだけ日本人と分からないよう生きてきましたが、リンダイヤーさんの話を聞いて以来、私は結局、その憎んだり恨んだりしている人たちの話を聞き流し、積極的ではないにしても、彼らをその憎悪の泥沼にはめ続けているのだということに気付かされたのです。自分があたかも何も見えずまた聞こえないふりをしてきたことに深い反省を覚えました。この作者も自分の物語を誰よりも日本人に聞いてほしいのだと思います。どうか、耳を傾けて聞いてあげてください。
※オランダでは、2000年にライデン大学名誉教授・村岡崇光先生ご夫妻を中心に、日蘭対話の会(www.djdialogue.org)が発足し、インドネシアからの引揚者とオランダ在住日本人が、顔と顔を合わせて話をする場を提供している。