折々の言 19 本を書く作業
工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医
一、表現すること
今私は、『P・トゥルニエを読む|新しいキリスト教人間理解のために』という本を書いている。作業を進めていくと、いつも、一旦自分の書いたものをしばらく放っておいたり、その原稿を誰かの手に渡すとか、それを手放さないと、見直しできないという現実に直面する。
つまり、表現することは、自分が何を思い、何を書きたいのか、その漠然とした考えに形を与えるという点で大切なものであるが、それを深め、吟味するためには、何度もその原稿を誰かに書き直してもらった方が、ずっとすっきりとした形になるということである。
換言すると私の場合、自分の思いや表現を、じっと自分の手の中に握っていては、次のステップにそれを展開できないということでもある。
そこで、まだワープロ、パソコンの操作をマスターしていない私は、入力される方や編集される方に大変なご迷惑をおかけすることになる。しかし残念ながら、この作業を繰り返さないと、どうしても納得のいく文章にならないのである。そして言うまでもないことだが、この操作のくり返しが思いを深めるのである。
この点、一度、東京で遠藤周作氏の、また大阪で司馬遼太郎さんの原稿への手入れ、書き込みを見たことがあるが、その鋭さに、圧倒されたことがある。
もしかしたら文章の深さとは、この推敲の過程の中にあるのかもしれない。
二、カウンセリングプロセスとの類似
ところで、毎回こんな操作を繰り返しながら、この作業はどこか私の携わっている心理療法や、カウンセリングプロセスとよく似通っているのではないかと思ったりする。 かつて私は、カウンセリングプロセスを、H・クラインベルのCaring + Confrontation = Growthの公式になぞらえて、話す(つまり表現する:クライアントの作業)+聞く(つまり共感的に受け止める:カウンセラーの作業)=成長(何らかの気づき、発展)とまとめたことがあったが、(『援助者とカウンセリング』いのちのことば社 225頁)、この「表現する→受けとめていただく→新しい発展」という一連の流れは、何か自分自身の明確化、心の深化に深い結びつきのあるような気がするのである。
三、他者の存在の必要性と自己発展
もしこの想定が正しければ、私はこの編集者や入力して下さる方の力を借りて自己表現をなし、自己確認をなしてきたと言える。
つまり多少奇妙に聞こえるかもしれないが、私の本や私の文章は、自己確認のために、私自身のために書かれてきた節があるのである。
ノーベル賞作家大江健三郎氏の文章の中に、次のようなものがある。
「音楽であれ、文学であれ、芸術を作るということは、これまで混沌としていたものに秩序をあたえることです。あいまいな、ぼんやりしている、不定型なものに、かたちをあたえることです。……そして、人間と動物がちがっているのは、いったんはじめのかたちを作れば、それをふまえて一歩進む、その上にさらに積みかさねる、あるいはそれを作りかえて新しいかたちを作る、ということをしないではいられないことです。……(中略)……私の小説について見ましょう。私は四国の森のなかに生まれました。高校生の時、渡辺一夫というフランス文学者の本を読み、この人に教わろう、という気持をおこさなかったならば、東京に出てこなかったと思います。……東京大学新聞にひとつ短編を書いたのがはじまりで、その表現のかたちの上に積みかさねる、それをつくりかえる、ということをしているうちに三十七年間が過ぎてしまったという気すらします。そしてその過程で、自分のなかに、(光の場合よりもっと)暗く複雑で、悲しみやら苦しみやらを発見することになった……」(『恢復する家族』講談社 191頁)
このように考えると、人には、表現する場が必要であると同時に、それを受け止めてくれる人の存在が必要であり、とりわけ、共感者や、励まし手の存在は必要不可欠なものとなることが分かる。
四、忘れがたい一人の編集者
この点、もう三十年程前のことであるが、私の思い出の中に、私を育ててくれた一人の編集者がいる。『牧会事例研究I』(聖文舎)という一番初めの頃に書いた本のことである。
三十代半ばに書かれたこの本は今でも時々、「大きな衝撃を受けました」と言われる人に出会うことのある本であるが、この四冊のシリーズになる本の原稿が、一時途中で少し中断したことがあった。
いぶかしく思って上京した折、その編集者と直接お会いしてみたら、その人は私にこう言われたのである。
「今中断している所の原稿を、どう書き直したらよいか、私は先生の本の初めにさかのぼって全部読み直して、先生らしい文調になる言葉を探しているのです……」
まだ原稿がすべて、手書きの頃の思い出である。
その時私はその人の中に、編集者の何たるかを見る思いがした。そして、こうした編集者や、これまでの本に多少なりとも共感を示して下さる方々に出会わなかったら、決して今日まで二十数冊の本を書くなどという事態には導かれなかったのではないかとも思う。
「隠れた所での祈り」(6月号)に記したように、密かな発想、着想は時によって編集者やそれを受け取る側の無責任や批判や思いやりのない一言によって、花のつぼみのようにいとも簡単にしぼんでしまうものだからだ。
ともあれ私はその初期に、何とか若い私を生かそうとした、その職人気質の編集者に出会えたことを、今でも深く感謝している。
それゆえ臨床の現場ではできるだけ受容的に、また時にカウンセラーとしては、病者の語るその一言一言を、何とか形にしようと努力しているつもりである。
私の親しい友人の一人から、かつてこんなことを言われたことがある。「私はAというエッセイストが大好きなのですが、その人がそこに何を書いているかは、もう何度も読んでいるのでよく分かっているのです。でもまた読むのです。するとまた、恵まれるのです。何か、その人が表現している以上のものを感じるからです」
すぐれた本に出会い、くり返しその本に向き合うことの幸いは、そこにあるように思われる。