折々の言 3 人はパンのみにて生きるにあらず

コーヒー
工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医

 一、 一通のクリスマスカード

 年末にかつての大学の受講生から次のような内容のクリスマスカードが届いた。

 クリスマスおめでとうございます。何年前になるでしょうか、初めて大学で先生の講義をうかがい、一言も聞きもらすまいと全身を集中させていたことを思い出します。当日は、持病が悪化したため痛み止めの座薬を使いながらの受講でした。途中から思いもかけず涙が出て仕方なく、先生もそれに気づかれたのか、あるいはたまたまだったのか話を中断なさって……。それからしばらくたって今度はカウンセリングの上級コースで先生に直接お目にかかれて感謝でした。先生はたくさんの知人、友人がいらっしゃるので覚えておられないかと思いますが、私には決して忘れられない思い出です。先生が東京方面にはもうおられないのでさびしい思いですが、ご本が手元にありますので、何回も何回も読み直しています。私は今、近郊のいのちの電話にかかわっていますが、ご著書によって今も励まされております。……いつまでもどうぞお元気で。

 二、 学びたい存在としての人間

 私が当時、涙が出る(?)ほどの講義をしたかどうかは別にして、毎年、このような受講生に恵まれたことだけはたしかである。

 その講義というのは、主に精神医学や精神保健学、キリスト教的人間理解やカウンセリング論といった内容のものであったが、正規の学生のほか十人、二十人の受講生は、公開講座(だれでも学びたい人は参加できるプログラム)であったので、そのメンバーは有職の社会人、主婦、あるいは牧師、教職者と多彩であり、また心の痛みをもつ当事者、中途失明者などとバライティに富んでいた。

 そして私にとっておもしろかったのは、「毎回、毎回、人間の発見や感動があります」といって奥さんや息子さんを連れて親子で受講される牧師がいたり、発展途上国で活躍したナースが、もう一度自分の看護を見直したいと受講されるなど思いもかけない方々にお会いできることであった。また中には、「部下が次から次に心の病気になっていく時代の歪みを、この講義の中から理解できました」といってくれた大企業の支店長もいた。

 実のところ私は、こうした受講生の反応に励まされて、十年近い毎週の東京―大阪往復が可能になったと信じている(いうまでもないことであるが、講演会と同様に、講義というものは、そこにどんな参加者、つまり受講生が集まるかによって大きく左右されるものである)し、そのおもしろさはこの大学における待遇面の不足を補うほどのものでもあった。

 ところで私がその十年近く大学の教壇で実感したことは、人はみな、それぞれ自分自身の中に一つの混沌を持っており、その解明なり、解放を求めて、本当に学びたいと願っているらしいということであった。つまり人間は「学びたい存在」であり、人の心は視野が広がること、自由になること、光が当てられるということに驚くほど敏感であり、真摯だということである。

 この想定がほぼまちがいがないのは、私がその大学や東京を去ってから間もなく形を整えることになった「トゥルニエを読む会」(お茶の水)、「ナザレの会」(吉祥寺)、「三鷹の会」といった集まりの形成の中に認めることもできる。つまりこうした会を結成した人たちの熱意は、それこそ「生涯的な学び」を期待し、多くの犠牲を払って、私の交通費や宿泊費、多少の謝礼を準備してでも続けて学びたいという意志を形に表したものにちがいない。まさに人は「パンのみに生きるものではない」のであろう。

 こうして私は今でも月一度、上京し、受講生のために講義を続けることになったのである。

 三、 教育と癒し

 私がその大学から去る最後の年、精神保健学を受講した社会人入学の学生が次のようなレポートを書いてくれた。

 たまたま何気なく受講したこの授業で私は生涯の宝を得たように思う。私は幼少時に親から捨てられるというトラウマ(心的外傷)を負って、社会福祉の現場で働き、行き詰まってこの大学に入学したのだが、エリクソンの人間の八つの発達段階の講義の中で先生は、「人生はこのように段階的に成長するように仕組まれているが、不条理なこの世界では必ずしも人間は順調に育てられるとは限らない。したがってある時期の〈欠け〉を必ずしも致命的に考える必要はない。それは人生の途上で、また様々な出会いで補えるようになっていると思われる」と言われ、「やり直しのできる社会を」と黒板に書かれたとき、私は何か救われた気がしました。私はこれから社会福祉の現場で、自分自身がそうした社会的資源になっていけたらと強く願ったのでした。(以下略)

 東洋には「朝に真理を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉がある。それほど人間には、深く真理を求める気持ちが生きているということであろう。また聖書は、主イエスの誕生を「暗黒の中に住んでいる人々に光がのぼった」と記している(マタイ四・一六参照)が、「教育」という世界にも通じる事柄のように思われる。ちなみに「教育」と訳される英語には「en-lighten」(光を与える)という語があることを考えると、私たちが通常耳にする福音もまた人を深く納得せしめ、心に光を与えるものである必要を改めて思うのである。