折々の言 5 多弁な宗教
工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医
一、礼拝にもっと静寂を
先日一人の友人が「これちょっとおもしろいですよ」と言って、ある新聞記事を見せてくれた。そこには「二十一世紀――日本のキリスト教の生命と使命」と題して次のような内容のことが書かれてあった。
- 日本の教会の礼拝では、なぜ静寂や黙想が少ないのか。説教は長く、賛美歌も祈りも声に出さねばならない。礼拝の基本は黙して祈ることではないか。
- 礼拝中、立ったり座ったり、落ち着いて神と向き合えない。
- 祈りはひそかな行為のはずなのに、声を出して祈るのが原則となっている。当然偽善的になる。会衆一同の祈りなら「主の祈り」だけで十分ではないか。
- (日本の教会は)女性中心でお父さん層を無視している。中年以上の男性で宗教に関心をもつ人は意外に多いが、その多くが禅か浄土宗に向かう。(これは)社会経験の乏しい牧師が長々と一方通行の説教をするからではないか。
- カトリックは儀式の比重が高いのに対して、プロテスタントの礼拝は言葉中心であり、かつドイツ神学にとらわれすぎている。
- 言葉に出すことは、あいまいさやあやしさを見分ける点では大事であるが、それに頼りすぎては知識中心となり、深い宗教性を失う。
- キリスト教には神秘主義という黙想の伝統はあったが、日本の教会は克服したつもりになってしまった。霊性への関心の薄い牧師は、聖書注解本位の説教しかしなくなり、信徒の期待に応えられなくなっているように見える。
(「朝日新聞」 2001年9月10日)
二、「黙する」ということ
以上は、その記事の私なりのまとめであるが、「(このままでは)総人口の一パーセントにもならないキリスト教徒の中で、プロテスタント人口はさらに減る」という指摘や「言葉が多すぎる」「沈黙が少なすぎる」という指摘は、多くの読者の実感ではないだろうか。
かく言う私も、最近は年をとってきたのか、週日一人で、近くの教会の礼拝堂や祈祷室を開放してもらって静かな黙想のときを持ったり、絶対沈黙の時間が定められている聖書深読会などに参加するようになってきた。沈黙の世界には確かに言葉の世界を越える何ものかがあるように思われるからである。
そしてまた「声を出す」「言葉に出して祈る」という世界には、あいまいなものを明確にするプラス作用と同時に「偽善」が入り込むだけでなく、何か大切なものを壊すマイナスの作用があるという事実もないがしろにできないことにちがいない。このことは、私たちの日常生活で、人を意識して思いを言葉に出すとき、そこには体裁やみえ、ときには計算が入り込むことや、本当の出会いは多くの言葉がいらないことを考えてみたらよく分かることである。
祈りの宮に上ったふたりの人物のたとえは、どこかこのことに関係するように思われる(ルカ18・9―14)、本当の出会いの中で人は、しばしば言葉を失うのが常だからである。
もしかしたらあの祈りの宮に上った取税人は、神の前に自分が一体何ものであるかに心をいたしたために沈黙したのかもしれない。というのは、総じて私たちが、何かを口にするというのは、まだまだ自分のことを述べる余裕があるときであり、自己正当化できる何ものかを持っていることが多いからである。このことはカウンセリングの場でもよく見られることである。
次のような断想がある。
相手の身になって、と簡単に言いますが、その通りでしたことが、相手の重荷になっている場合も少なくなく、難しいものであります。むしろ、自分を控えることが持つ意味を、大切にしたいと思います。自分を控えるとは、無関心のことではありません。相手の中に、自分と同じ弱さを見て、ものが言えないということであります。この共感、それが人間関係に節度を与えることでありましょう。そして、人と人を結びつけるものは、あれこれをなすよりは、この節度である場合が、かえって多いものであります。
(「自分を控える」 『灰色の断想』ヨルダン社 七〇頁 藤木正三)
三、多弁、多言の中で見失われるもの
概して読みの浅いカウンセラーほど多弁で、説明的になりやすいものであるし、多弁はしばしば空虚さの反映であったり、自分と向き合うことからの逃避であったりすることがある。それゆえ私は、知識中心になりすぎたキリスト教や聖書注解本位の説教は深い宗教性を失い、信徒の(つまり人々の)期待に応えられなくなっているように見えるという指摘に注目したいのである。
次のようなことを述べた人がいる。
青年前期まで、私は実に多弁な宗教の世界でもみくちゃになっていた。何宗とは言わないでおこう。ただ現在、まさに晩年になって思うのは、宗教はあまり多弁でないほうがいいのではないかということである。ことばでは伝達できないものが世界にある。人間以上のものに対する畏敬の念も、むしろ沈黙の中で育つのではなかろうか。
(神谷美恵子)
一言多いために、せっかくの機会をだいなしにしてしまうこともあれば、沈黙にたえられなかったばかりに、多くの貴重なものを失ってしまうことの多いのが、私たちの現実ではないだろうか。