折々の言 6 マザーテレサの瞳
工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医
一、一つの詩
私は前回、キリスト教、特にプロテスタント信仰には、もっと静寂が必要ではないかということを述べ、「多弁」さの危険を述べた。今回、「多弁」さはまた、宗教性の喪失だけではなく、文化の浅薄さ、衰退を意味することもあるのではないかということを考えてみたいと思う。次の詩は、すぐれた詩人、茨木のり子氏によるものである。
マザー・テレサの瞳
マザー・テレサの瞳は
時に
猛禽類のように鋭く怖いようだった
マザー・テレサの瞳は
時に
やさしさの極北を示してもいた
二つの異なるものが融けあって
妖しい光を湛えていた
静かなる狂とでも呼びたいもの
静かなる狂なくして
インドでの徒労に近い献身が果たせただろうか
マザー・テレサの瞳は
クリスチャンでもない私のどこかに棲みついて
じっとこちらを凝視したり
またたいたりして
中途半端なやさしさを撃ってくる!鷹の眼は見抜いた
日本は貧しい国であると
慈愛の眼は救いあげた
垢だらけの瀕死の病人を
――なぜこんなことをしてくれるのですか
――あなたを愛しているからですよ
愛しているという一語の錨のような重たさ
自分を無にすることができれば
かくも豊穣なものがなだれこむのか
さらに無限に豊穣なものを溢れさせることができるのか
こちらは逆立ちしてもできっこないので
呆然となるたった二枚のサリーを洗いつつ
取っかえ引っかえ着て
顔には深い皺を刻み
背丈は縮んでしまったけれど
八十六歳の老女はまたなく美しかった
二十世紀の逆説を生き抜いた生涯外科手術の必要な者に
ただ繃帯を巻いて歩いていただけと批判する人は
知らないのだ
瀕死の病人をひたすら撫でさするだけの
慰藉の意味を
死にゆくひとのかたわらにただ寄り添って
手を握りつづけることの意味を――言葉が多すぎます
といって一九九七年
その人は去った
(『倚りかからず』 筑摩書房 六九頁)
二、沈黙に裏付けられた言葉を
クリスチャンとはいえ、「中途半端なやさしさ」の中に苦しんでいる私たちには、ドキリとする内容の詩である。それはともあれマザー・テレサは祈りの人、行動の人として知られた人である。彼女が、その一日の行動を、早朝の長い祈りから始めたということは、よく知られた事実であるが、それは言うまでもなく彼女の言動は深い沈黙、黙想、観想に裏付けられていたということを意味する。
それゆえにこそ「言葉が多すぎます」という彼女の最後の言葉は、痛烈な現代批判であり、嘆きであり、警鐘であるとさえ思われてくる。実際、人と人との対話には、言葉が不要なときがあり、ときに妨害的に働くことさえあるのである(「ことばを交わしても、交わさなくても、深い関心のあるとき、そこに対話はなされている」マルチン・ブーバー)。
そしてこのことは、私たちと神との関係においても事実であり、おそらく宣教や伝道においても同様であろう。とすれば私たちには、詩篇の記者が「わたしの魂はもだして神を待つ」と言ったように、もっと深く沈静することが求められているのではないだろうか。
私の臨床経験の中に、かつて半年ほど、かなり口うるさい父親に連れられて病院にやってきていた青年がいた。何を聞いても一言も答えない(答えられない)ので、私はその青年は、言葉を失った人なのかと思っていた。ところがある日、彼はあるセッションで次のように言い放って私を驚かせたのである。
「先生、水鳥っているでしょ。水鳥が遊んでいるときに、敵がやってきたら、親鳥は子どもを守るでしょ。でもうちの父は全然そうではないのです……」
彼の一言は、三十年経った今でも、私の心に鮮明によみがえる。沈黙の言葉とは、それほど力あるものなのである(『心で見る世界』聖文舎 七七頁)。