折々の言 9 生命の使い方
工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医
一、生の粗雑さ
前回、私は同労者の訃報から「生命の本来性」と呼ぶべきものは何かを考え、「残された時間を大切にする」こと、「もっと身近にある人々を大切にする」べきことを述べたが、残念ながら私たちの日常生活、職業生活はまったくこれと裏腹の中に営まれているのが現実のように思われる。
たとえば私たちの生活の中で最もないがしろにされ、粗雑に扱われているのが「時間」であり、「家族」ではないだろうか。私たちは「明日も分からぬ身」(ルカ一二章)なのに、明日もあると思って、うかつに一日一日を過ごしているのが常であり、多忙な、それこそ「追われる生活」の中で、家族とか家庭は、外で何かを効率よくするための手段と化しているのではないだろうか。そして家族のありがたみに思いをいたすのは、せいぜい病気で寝込んだり、何か窮地に追いやられ、弱り果てたときくらいである。つまり、仕事や生産活動に追われている生活の中では、今の健康も時間もいつまでも続くものととらえられやすいがゆえに、粗末に扱われ、家族は自分を支えてくれて当たり前、自分が動きやすいように動いてくれて当たり前と考えられてしまうのである。
ということは、人は本質から外れたことに忙しく追われ、なくてはならないものに目を注いだり、それらの真価に気づくのは、病や死という非日常的な世界に追い込まれてからかもしれないということである。このことは、病や死に直面して生活の質(Quality of Life)が急速に高められるという臨床経験の中にも多くうかがわれることである。病や死が「人生のスパイスかもしれない」と私が前回述べたのは、そんな意味合いからである。
二、生命というもの
ところで生命の使い方に関して「使命」というおもしろい言葉がある。与えられた生命をどう使うかという意味のことであるが、死に直面して初めて、私たちは自分に与えられた生命や限りある生命をどのように使ってきたのか、あるいは使うのか、何のために費やすかという課題にようやくたどりつくもののようである。
前回、私は三十代、四十代と五十代後半、少なくとも六十歳を間近にしたときの心境は、大幅にその内容において異なってくるかもしれないという意味のことを述べたが、それを具体的に言えば、与えられた生命を、はたして自分の好きなようにあるいは好き勝手にしたいほうだいのことをするというのは、いかがなものだろうかということである。つまり私たちは、自分がどう生きるかということを考えたとき、「使命」などという大それたテーマは、そう簡単にはわかり得ないため、とりあえず「やりたいこと」「好きなこと」をやってしまうのが常であり、それはそれで意味のあることだが、それが行きすぎていつの間にか貪欲や人間の身勝手さに傾いて、周囲にその被害を及ぼしたり、そのつけを後世に残すような消費社会的な生き方のみを求めるようになれば、それは本当に生命の本来性だろうかという疑問である。生命は本来何かもっと崇高なもの、大いなる方のために用いてこそふさわしいのではないだろうか。次のような断想がある。
この意味においても人は、その生において時々、病や死を覚えることは意味深い経験のようにも思われてくる。そして人の心の中には、何か大切なことのため、また大切な人のため生命を使いたいという「献身」への根強い欲求があるのも事実である。
聖書の中に一つの重い言葉がある。「神の前に富む」(ルカ一二・二一)とか「天に宝を積む」(マタイ一九・二一)という表現である。
私たちはいったいこの与えられた生命を何に使っているのだろうか。ただ一つ私たちの生命は、「与えられたもの」であって、自分が「手に入れた」ものでないことだけは確かである。とすれば私たちの置かれた現実は、この不況下、とにかく追われる生活であり、自分のことで精一杯なことは確かであるが、時にふと立ち止まって身近にある者との時間を大切にし、人間らしい心に立ち帰ることも大切なことの一つにちがいない。