文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第2回 なぜ、聖書解釈なのか(中)

関野祐二
聖契神学校校長

 聖書の読み方(広義の「解釈」interpretation)には、
「釈義」(exegesis)と
「解釈」(狭義の「解釈学」hermeneutics)、
そして「適用」(application)という三段階の務めが含まれています。
言い換えるなら、ある聖書箇所を、
「そのときそこで(どう語られたのか)」(釈義)、
「今ここで(どう読むのか)」(解釈)、
「それではどのように(実行するのか)」(適用)

と読み進めるとき、「聖書を読んだ」ことになるのです。

● そのときそこで(釈義)
○ 釈義とは?

 「釈義」は日々私たちが聖書を読む務めの出発点。聖書のことば本来の意図を見いだすわざです。聖書各書が記者によって書かれた際、元々の受け取り手に意図された内容を聞くこと。主イエスはこのたとえ話で群衆に何をわからせたかったのか、使徒パウロはこの箇所でガラテヤ諸教会に何を伝えたかったのか、これらを考え、探るのが釈義です。

 私たちが陥りやすい過ちは、読んで意味のわかる(と思われる)箇所を、背景や原意、聖書記者の意図など考えずダイレクトに、今の自分の生活へと適用してしまうこと。釈義とは、すべての聖書箇所に施すべき第一段階のわざですから、どこを読んでいても「そのときそこで」を意識する必要があるのです。

 放蕩息子のたとえ(ルカ一五章)は、取税人や罪人を受け入れた主イエスへのパリサイ人・律法学者たちのつぶやきに対する応答として語られたとの背景を知らずして、正しく解釈することはできません(実際にはそこに福音書記者ルカの意図が重なります)。

 もうひとつの過ちは、疑わしき釈義解説をうのみにしてしまうことです。主イエスが富める青年と会話した後、弟子たちに「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と語りましたが(マルコ一○・二五)、エルサレムには「針の穴」と呼ばれる門があり、らくだはひざをかがめ苦労をしてはじめてそこを通過できた、だから苦労はするがらくだも針の穴を通過できる、との釈義は正当でしょうか。実はこれ、十一世紀ギリシヤ正教会のテオピラクトの注解に出てくる事実無根の珍説。正しい釈義をするなら、主イエスはらくだが針の穴を通過する不可能と、豊かさに信頼を置く人が神の国に入る不可能を並行させ、金持ちが救いを得るのは奇蹟であることを強調しているとわかります。

○ 歴史的背景

 聖書本文を注意深く読み、「これはどういう意味なのか」「なぜこう書かれているのか」などの適切な問いかけを続けるのが、釈義上達のコツ。そこから資料に向かい、調べることで知り得る第一は、読んでいる箇所の歴史的背景と意味です。地理、ユダヤやローマ世界の文化、政治状況、当時の民衆思想などは、『聖書 新改訳 注解・索引・チェーン式引照付』(以下、チェーン式聖書と略)の緒論や注解を読むだけでも相当わかりますし、「聖書辞典」や「聖書注解」を用いれば、「そのときそこで」がより深まります。加えて、各書の執筆事情と目的を知ることも重要。なぜその時代、そのような文書が生み出されたのか、宛先のイスラエルや教会に何が起こっていたのか、これもチェーン式聖書の緒論に書かれています。

○ 文脈

 第二は文脈。ことばは文章の中でのみ意味を持ちますし、ある文章は先行する文と後続の文との関連でのみ、はっきりした意味を持ちます。文脈をとらえる目的は、記者の思想経路をたどることで、今読んでいる箇所のポイントを明確にし、何を言っているかを知るためです。先に挙げた放蕩息子のたとえは、先行する二つのたとえ(失われた羊、なくした銀貨)との関連で読むのがたいせつ。各書の構成を記したチェーン式聖書の「梗概」はとても役に立ちますが、聖書をよく読み、自分でそれを見いだす努力も必須でしょう。

○ ことば

 歴史的背景とも重なりますが、特定のことばの意味、文章における文法的関係を調べることも釈義に欠かせません。たとえば、「肉」や「死」などは、幾通りもの使われ方がなされていることばですから要注意。特に、「義」や「贖い」などの専門用語は、聖書中の意味が一般使用のそれと異なるため、解説を読む必要があります。

● 釈義のための参考資料

 まとめとして、良い釈義に役立つツールを確認しましょう。必携書は次の二つです。

① チェーン式聖書
② 他の翻訳聖書(メインが新改訳なら、新共同訳など)。英訳聖書も有用です(『バイリンガル聖書』や”NIV Study Bible”など)

 さらに調べたい場合は、次の資料もどうぞ。
③ 聖書辞典(『新エッセンシャル聖書辞典』など)
④ 注解書(『新実用聖書注解』など)