文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第10回 「使徒の働き」の解釈 (中)

関野祐二
聖契神学校校長

●「何が」と「なぜ」
○ 役員の選定基準?

 著者ルカの「使徒の働き」の執筆意図を探り、その適切な解釈と今日的適用に備えるため、実際に二つの記事を取り上げましょう。

 まずは、使徒六・一―七の「七人の選任」。この記事は、一章から始まるエルサレム原始共同体の発生と成長という大きなセクションの結論部分に置かれ、ヘブル語を話すユダヤ人教会員とギリシヤ語を話すユダヤ人(ヘレニスト)教会員の間で生じた、やもめたちの扱いをめぐる緊張を伝えます。

 十二使徒は、ヘレニスト教会員の中から指導者を公式に認定することでこの問題を解決するのですが、おもしろいのは、両者の軋轢を解消し、かつ十二使徒が祈りとみことばの働きに専念するため食卓の奉仕者七人(全員がギリシヤ名を持つヘレニスト)を選んだにもかかわらず、この後続くのは、七人の中のステパノとピリポが殉教と迫害の中でみことばを語る姿。

 ルカが描きたいのは、最初の教会組織云々ではなく、福音がエルサレム教会から外に拡大する際、ステパノというヘレニストクリスチャンの殉教が鍵となったこと、教会と福音の急速な拡大において、彼らヘレニストが神のご計画推進のためいかに重要な役割を担ったかです。エルサレムが出生地でない彼らだからこそ、外に散らされて福音を伝えることが可能だったと言えましょう。

 一般にこの箇所は、Ⅰテモテ三章やテトス一章と並び、現代の教会役員や執事を選ぶ基準として適用されますが、間接的な参考にはなっても、この記事は本来そのような意図で書かれてはいません。ルカはもっと壮大な聖霊によるムーブメント、その第一幕結末部分にこの出来事を位置づけているのです。

○ 聖霊はいつ?

 もうひとつ、使徒八・五―二五は難解な箇所。なぜなら、サマリヤ人たちが信仰を持った後、別の機会にあらためて聖霊を授けられたように見えるからです。

 著者ルカは何に関心を持って、数ある出来事の中からこの記事をピックアップし、ここに置いたのか。興味深いのは、ステパノ殉教とエルサレム教会への迫害の結果、福音がサマリヤに届いたのは、十二使徒による働きと全く別個の、ヘレニスト(あの「七人」の一人ピリポ)による宣教の実であったこと、しかし同時にそれは按手と聖霊のしるしとにより神と十二使徒の承認する働きだったことです。聖霊によるムーブメントは、既成概念を押し広げつつも、決して無秩序な運動ではなかったのです。

 ところでこの箇所は、人が信仰を持ちキリスト者生活をスタートすることと聖霊を受けることは別個の経験である、と証拠立てる聖句なのでしょうか。

 聖書を読む限り、サマリヤの人々はピリポの伝道により確かに主イエスを信じたのであり、その証しとして主イエスの御名によるバプテスマを受けました。

 キリスト者生活にとって聖霊の内住が決定的要素であることは「使徒の働き」の中心テーマであり、聖霊によらず主イエスを告白はできないのも確かです(Ⅰコリント一二・三)。

 「使徒の働き」で聖霊の臨在は力を意味し(一・八、六・八、一○・三八)、その力は通常、目に見える証拠で明らかにされました。サマリヤでまだ起こっておらず、ペテロやヨハネ到着まで主によって差し控えられていたのは、聖霊による救いや内住そのものではなく、すでにサマリヤ人信者に与えられた聖霊、力あふれる臨在の、目に見えるしるしと思われます。

 エルサレム使徒の按手で聖霊のしるしが与えられたことにより、サマリヤ人の救いは公認され、それをルカが「聖霊が下る」「聖霊を受ける」と表現しているのです。

 ルカの意図が聖霊による福音前進ムーブメントの描写にあることを考えるなら、サマリヤでの使徒による聖霊臨在の確証というこの出来事は、ルカにより神が「使徒の働き」全体を通して語ろうとしているメッセージの、重要な一部を構成していることがわかります。

● 先例と規範の問題

 以上、煩雑な釈義をあえて述べたのは、それだけ「使徒の働き」の解釈がデリケートなセンスを求められる作業だからです。聖書解釈の大原則は「元々の意味に戻ること」、すなわち釈義の優先性です。これがあってはじめて、今日の教会や我々への適用の是非を検討する素地が与えられます。

 さて、ここに至りあらためて問いましょう。「使徒の働き」所収の各説話は、後の時代の教会に属する私たちにとって、どのような先例となるのでしょうか。換言するなら、「使徒の働き」は、原始教会の単なる描写を超えた、あらゆる時代の教会に対する標準や規範なのか。もし後者なら、規範を汲み取る原理原則の標準化が求められるでしょう。

 聖書を尊重する福音的キリスト者は、「使徒の働き」所収の出来事を「先例」とし、標準的権威として従う行動様式と扱う傾向があるのですが、扱い方が一貫性に欠けるのも事実。「こうするべき」と「こうすることもある」の見極め方は、次回あらためて学びましょう。