文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第12回 福音書の解釈 (上)
関野祐二
聖契神学校校長
聖書で最も親しまれているのは福音書、これに異論のある人は少ないでしょう。主イエスの教えと生涯を記録した伝記物語と一般には理解され、解釈もやさしいと思われがち。しかし、福音書は後にも先にも類例のない独特の文学様式ですし、成立過程も複雑で、その正しい解釈には準備が必要です。
● 福音書はどんな書物?
○ 伝記や偉人伝でなく
殉教者ユスティノス(一○○年頃―一六五年頃)によれば、福音書とは「使徒たちの回顧録」。主イエスについての事実を記録し、教えを思い出させ、イエスをキリストと証言する文書です。その内容は公生涯の三年間に集中し、いわゆる業績記録ではなく主人公の思想の発展もない、伝記や偉人伝とは言えぬ独特の書物。単なる共感や尊敬とは質の異なる、信仰の応答を読者に求めるのです。○ 他者による、四通りの
福音書解釈の難しさは、主イエス自身がそれを書いたのではないこと、四つの福音書があること、この二点に集約されます。主イエスは地上生涯でおもにアラム語を話されましたが、ことばは当時の国際共通語コイネー・ギリシヤ語に翻訳され、出来事を含め福音書として私たちに伝えられました。それは、一世紀ユダヤ世界の枠を超えて福音が伝えられるためであり、福音書を現代の文脈で語り継ぐ、解釈の必要性をも教える事実です。
○ なぜ四つ?
四つの福音書では、特に最初の三つで教えや出来事がしばしば並行記事として重なり合う一方、同一記事の用語や文脈、歴史順序が福音書相互に異なることも珍しくありません。現代の感覚ですとこれは福音書が不正確な歴史記録たる証拠でしょうし、逆にコピーのような正確さで四つが一致していたら、なにも四つなくてもよさそうなもの。神は、「主イエスとは誰か」、そのことば、みわざ、人格を後の世代に伝える文書として、こうした独特の方法をあえて採られたのです。
○ マルコが最初
四福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカは同じ観点から書かれた「共観福音書」ですが、マルコが最初に書かれ、それを資料としてマタイとルカが独立に利用したとは今日の定説。第二世代信者のギリシヤ人ルカはともかく、十二使徒のマタイがなぜそうでないマルコの著作を全面的に採用したのか、不思議な気がします。
けれど、「灯台、下暗し」を引くまでもなく、マタイがマルコ福音書に神的権威を認め、自身のイエス記憶のみに頼らなかった謙遜を知るべきでしょう。一番弟子ペテロは福音書すら書かなかったのですから。
使徒ヨハネは、先の三書とは独立した福音書を少し遅れて書きましたが、共観福音書と重なる記事は少なく、独自の視点と用語により、受肉した神の御子イエスを証しします。こうして四福音書は等しい価値と権威を認められ、どれも不可欠な神のことば、正典として今日に伝達されたのです。
● 主イエスの文脈と福音書記者の文脈
○ 二段階のドキュメント
福音書は、主イエスの昇天から三十年―六十年経った紀元一世紀後半に、著者の置かれた共同体の必要に即して書かれました。ですから福音書を解釈する際の土台となる釈義(歴史環境と意図の解明)は、主イエスの歴史的文脈と福音書記者のそれとの両方について必要です。なぜ記者たちは十字架と復活の出来事を「現地レポート」のような目撃速記録ではなく、一世代を経た後に書いたのか。リベラルな批評家は、その間に教会が人間イエスを神的キリストに変容させたと言いますが、もちろんそれは事実でなく、三十年以上の時間経過があってこそ真のキリスト像を描き得たと解釈すべきでしょう。
○ 主イエスの文脈
主イエスは、人として紀元一世紀のパレスチナ・ユダヤ教世界に生きました。ですから、福音書解釈にはその文化背景を理解し、主イエスの教えの様式(たとえ話、誇張、比喩や寓喩、問答など)を知る必要があります。J・スコット『中間時代のユダヤ世界』(いのちのことば社)は必読書でしょう。他方、福音書は初期教会に保存されていた、主イエスのことばやみわざの口伝伝承(ペリコーペ)を、著者が聖霊の導きの中で独自の編集をした作品なので、主イエスの文脈(たとえばその時の聴衆)を再現しづらいこともしばしば。並行記事が福音書によって異なる文脈に見つかる理由もこれです。
○ 福音書記者の文脈
福音書はどれも匿名文書ゆえ、誰がいつどのような目的で書いたのか、その再現は簡単でないのですが、素材選択や編集方法を調べることで、著者の関心をある程度は推測可能。たとえばマルコは、主イエスのメシヤたることを異邦人(おそらくローマの)読者に説明することに関心があります。力ある神の子イエスは、そのメシヤ性を繰り返し隠したが、それは「苦難のしもべ」(マルコ一○・四五参照)としてのメシヤを弟子たちが理解しなかったからでした。この十字架としもべの道は、弟子たちが求められている道でもあったのです。