文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第15回 たとえ話の解説 (上)

関野祐二
聖契神学校校長

● たとえ話はわかりやすい?

 日常的セッティングとありふれた小道具を用いる主イエスの「たとえ話」は、ストーリー展開やオチがおもしろく、お堅いイメージ(?)の聖書とは思えぬほど庶民的で親しみやすいため、ファンも多いことでしょう。「放蕩息子」「四つの種」「良きサマリヤ人」などは子どもたちにも大人気。でも、これを簡単に解釈できると思ったら大間違いで、たとえ話は主イエスが御国の真理を、心開かない者や悟らない者には、ますますわからなくさせる(マルコ四・一○―一二参照)、ひねりの効いた手法なのです。奥義が隠されているから字義とは別の意味に寓喩的(アレゴリカルな)解釈が求められる、という前提も先人たちの手痛い過ち。正しい解釈には慎重な準備と技術が必要ですから、福音書の一般的解釈とは分けて学びましょう。

● 「たとえ」と「たとえ話」

 「たとえ」(parable)はギリシヤ語パラボレーに由来しますが、新約聖書でパラボレーは格言(ルカ四・二三)、なぞ(マルコ三・二三)、比喩、たとえ話など、多様な意味を含む語。対応する旧約ヘブル語マーシャールはさらに広く、比喩的表現全体を包括しています。預言者ナタンがダビデの罪を責めた話や(Ⅱサムエル一二・一―四)、イスラエルをさばくぶどう畑の歌(イザヤ五・一―六)、ヨアシュ王によるレバノンのあざみと杉の話(Ⅱ列王一四・九)などは有名ですね。新約聖書でも、「あなたがたは、地の塩です」(マタイ五・一三)や「わたしはまことのぶどうの木」(ヨハネ一五・一)は隠喩(metaphor)、「天の御国は、からし種のようなものです」(マタイ一三・三一)は直喩(simile)という比喩(similitude)の一種で、主イエスが話の要点を理解させるため日常生活から採ったイラストレーションです。

 しかし、今回特に注目したいのは、新約福音書に収録された主イエスの「たとえ話」(true parable)。物語ですから始めと終わりがあり、筋書きが明確、ひとつの話としてストーリーが完結しているたとえのことです。

● たとえ話の役割と機能

○ メッセージ
 「ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう」(マタイ七・一六)のようなたとえ的言い方とたとえ話とでは、役割が明らかに異なります。たとえ的な言い方は主イエスのことばに彩りを加え、要点を印象深く強調する効果をもたらしますが、たとえ話はそうではなく、真理を開示するのが第一の目的でさえもないのです。むしろ、たとえ話はそれを聞く者に応答を呼び起こす手段。話自体がメッセージすなわち「応答への召し」であり、主イエスご自身や宣教に対するなんらかのレスポンスが期待され、聞き手や読者を行動へと駆り立てるものなのです。「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ一○・三七)、「楽しんで喜ぶのは当然ではないか」(一五・三二)、「あなたの目にはねたましく思われるのですか」(マタイ二○・一五)などは、いずれも問いかけの余韻を残し、応答を期待する終わり方。たとえ話は奥が深いなあ、と感心している場合ではありませんね。

○ ジョーク
 不謹慎と受け取られたら困ってしまうのですが、主イエスのたとえ話はジョークに似ています。たとえ話が主イエスの口から最初に語られた時、その場にいた聞き手の多くは、話のツボを即座につかんだはずで、長々しい説明や解釈は不要でした。ツボとは必ずしも物語の内容的な中心部分とは限らず、意外な展開ゆえ瞬時に反応するポイントのこと。「良きサマリヤ人のたとえ」(ルカ一〇章)で、話の中心は傷ついた人を助けたサマリヤ人の所作でしょうが、聴衆が瞬時に反応したツボは、「あるサマリヤ人が」の一言でした(理由は別の機会に!)。ジョークも同じで、笑いのツボをキャッチした瞬間にワッと笑いますが、何がおもしろいか説明しようとすると、意味はわかっても笑いの質はひどく低下します。「それは笑うべきことだった」と後で理解した頃には、次のジョークで皆が笑っているでしょうね。

● ではどうするか

 たとえ話が主イエスの口から語られた臨場感を文字通りには体験しようもない私たちは、書かれた福音書によってしか、たとえ話を知り得ません。ことばも文化も全く異なるわけですから、最初の聞き手と同じく即座にツボを押さえることなどできるはずもなく、その点ではハンデがあります。でも、正しい手順で釈義と解釈をすることにより、そこに同席していたらつかんだであろうツボをとらえることは可能。私たちにとっての課題とは、主イエスの肉声でたとえ話を聞いた最初の聴衆が受けたであろう、たとえ話の「パンチ」を、今ここでいかに追体験するか、です。たとえて言うなら(!)、獲れたての魚が漁師(福音書記者)により、当時の水や空気も含め鮮度良く冷凍保存されているわけですから、それを正しい解凍法で今によみがえらせ、同じ魚を当時どんな人たちがどのように食べていたのかを考えつつ、おいしく調理するのが私たち読者&解釈者の務めなのですね。