文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第20回 預言書の解釈 (中)

関野祐二
聖契神学校校長

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ四三・四a)。ご存知、無数の人々を慰め励ましてきた、預言書の人気ナンバーワン聖句です。「あなた」とは、私たちキリスト者(霊的イスラエル)を含む「残りの民」ですから、そのまま適用しても問題ないのですが、本来ならイザヤ書の歴史的背景と文脈を知ったうえで、がっしり受け止めたいもの。預言書は特にそのような背景理解が重要な書物ですから、聖書は『新改訳聖書 注解・索引・チェーン式引照付』(以下、注解付き聖書と略)をぜひお使いください。

● 歴史的文脈○ 預言書までの時代

 長いイスラエル史で、預言書が書かれた時代とはエリシャの死後(Ⅱ列王一三章)、預言者アモス(紀元前七六○年)からマラキ(前四六○年)までの三百年間限定であることには理由があります。族長時代(前一八〇〇年頃)~ダビデ王国時代(前一〇〇〇年頃)、神は族長や指導者モーセ/ヨシュア、士師、預言者サムエル、王を通して語り、分裂王国初期には、預言者エリヤ/エリシャなどにみことばを授け、旧約物語文の形で記録させました。

○ 預言書が書かれた時代

 しかし王国分裂(前九三○年)後しばらくして、王や民の背信と偶像礼拝が極度に深まる中、神は「契約施行の仲介」を預言者たちに求め、モーセ律法に立ち返るよう神の民イスラエルに警告し、立ち返った際の祝福とともに、その託宣を後の世のため記録させる、特異な三百年間を導入したのです。

 預言者アモスとホセアは、北王国の背教と甚だしい偶像礼拝へのさばきとして、アッシリヤによる蹂躙と切迫した王国滅亡を告げました。一方、イザヤ、エレミヤ、ヨエル、ミカ、ナホム、ハバクク、ゼパニヤは、南王国に同様の罪が増大し、誤った選民意識と神殿への過信が広まる中、バビロンによる蹂躙と王国滅亡が迫っていることを告知。南北イスラエル滅亡後は、エゼキエル、ダニエル、ハガイ、ゼカリヤ、マラキが民を回復する主のみこころを告げるのです。

○ 特異な預言書の時代

 以上のように、この時代は先例のないほど、政治/軍事/経済/社会の各分野で大変動が起こり、国境線と主権が脅かされ、宗教的退廃と律法への違反が巨大化していました。だからこそ、モーセ律法への回帰と主のみことばの更新がどうしても必要だったのです。

 ですから、預言書の「年代」「聞き手」「状況」を知ることなしに、歴史の中で語られた預言を理解することは難しいでしょう。注解付き聖書の各巻頭にある「緒論」は、これらの情報を簡潔にまとめた貴重な資料です。

● 託宣を区切る

 書簡の解釈で「段落を考える」のが事始めだったように、預言書では「託宣(oracle 預言のことば)を区切る」ことから始めます。例外的に、託宣のあった日付や場所が明記されているものもありますが(ハガイ、ゼカリヤ、エレミヤ、エゼキエル各書など)、通常はいろいろな時と場所で語られた預言者のことばが収集され、切れ目なく書き下ろされているので、いつ、誰に対し、どんな状況下で語られたのか、判別が容易ではないのです(たとえばアモス五章)。託宣区分が自力では難しい場合、注解付き聖書の「梗概」が役立つでしょう。

● 預言の文学様式

 古代イスラエルにとって、「詩」はとても尊ばれた表現形式(詩篇や知恵文学の解釈で再度学びます)。一定のリズム、バランス、構成と規則、順序を有しているので覚えやすく、個人で書物が持てない時代には重要な、メッセージ伝達手段でした。預言書にはこの詩文体が多く用いられているので、並行法(パラレリズム)や交差法(キアスムス)など、ヘブル詩の技巧を知っておくとよいでしょう。加えて、次のような形式があります。

○「訴訟」の形式

 神が想像上、被告イスラエルに対する原告、検察、裁判官として描かれる、アレゴリカルな様式。イザヤ三・一三―二六がその例です。

○「悲哀」の形式

 古代イスラエル人が災害や死に直面した際の嘆きのことばを用い、神は切迫した破滅を予告します。ハバクク二・六―八にあります。

○「約束」の形式

 未来の急変革と救いを約束する形式です。アモス九・一一―一五、イザヤ四五・一―七、エレミヤ三一・一―九を参照ください。

○ 演技預言

 神は預言者にみことばを授けるだけでなく、時にはみことばに象徴的動作を伴わせました。イザヤを三年間、裸と裸足で歩かせ(イザヤ二○章)、エゼキエルにエルサレムの模型を作らせたのです(エゼキエル四・一―四)。

○ 伝達者のスピーチ

 預言書で最も一般的な形式がこれ。「主はこう仰せられる」「~に次のような主のことばがあった」という言い方で、預けられたメッセージを伝達者が脚色なしに伝えていることを受け取り手に認識させる、外交様式でした。預言者は神の代弁者に過ぎず、託宣の創造者ではないことを聴衆や読者に伝えたのです。エレミヤ三五・一七―一九が実例です。