文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第24回 詩篇の解釈 (下)
関野祐二
聖契神学校校長
詩篇を礼拝の交読文に用いる場合、少々扱いに困るのが、敵への憎しみを表明し滅びを願う「呪いの詩篇」。たとえば詩篇一三九篇は、私たちのすべてを知っておられる主への賛歌ですが、「私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます」(二二節)という箇所をどう読むべきでしょうか。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ五・四四)とのみことばを実行すべく日々苦闘している諸氏は、戸惑うのです。
● 呪いの詩篇とは
○ 怒りは自然な感情?
詩篇は、人間感情のあらゆる領域を扱います。悲しみや絶望はともかくも、怒りや苦々しさ、憎しみの感情は、人を罪ある思いや行為、たとえば他者を傷つけたいという欲求などに導く可能性があるので、適切な対処が必須。「それが人間の自然な姿だ」とうそぶいても、相手を傷つけては元も子もありません。怒りを然るべき相手(すなわち神)にことばで言い表すのが、暴力行為に訴えるよりも確かによいとは自明の理。「呪いの詩篇」には、それを助ける機能があるのです。○ 怒りの安全弁
呪いの詩篇は、他者への怒りをことばで神に向け、神を通して怒るための窓口でありガイド。神は呪いの詩篇を通して、怒っても罪を犯さないよう、私たちを招いているのです(エペソ四・二五―二六)。悪を働いた者に悪を返すよりは、神に直接怒りをぶつけ、適切なさばきを求めるほうがずっと良いですよね。ですから、呪いの詩篇(あるいは詩篇の中で敵へのさばきを求める部分)は、嘆きの歌すなわち哀歌の一部です。潜在的に罪深い怒りの感情を正しく方向付け制御するための安全弁(怒りのガス抜き?)として、呪いの詩篇を適切に用いることにより、私たちは感情にまかせた怒りから派生する罪を避けることが可能となるのです。
○「敵を愛せよ」と矛盾?
「敵を愛せよ」という聖句との関係性はどう考えましょうか。私たちには、「愛する」ことを「相手に対し温かい感情を持つ」ことと同一視する傾向があります。しかし愛とは、ある人に対して私たちがどう感じるかの問題ではなく、相手に何を行い、どのように愛を示すかでしょう。聖書は「愛を感じなさい」とは教えず、「愛を行いなさい」と導くのです(ルカ一○・二五―三七参照)。呪いの詩篇は、私たちが怒りを感じる時、怒りを行わないよう助けてくれます。誤解を恐れずに申し上げるなら、私たちは怒りを神に対して正直に表現すべきであって、いかに苦々しく憎しみに満ちた怒りを感じても、それ自体ではさほど問題になりません。その先、神に公正なさばきを任せればよいからです。そう考えると、呪いの詩篇を多く書いたダビデが、いかに神と親しく交わり、自分のありったけを神に向ける、すぐれて誠実な信仰者であったかがわかります。