文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第6回 書簡の解釈 (下)
関野祐二
聖契神学校校長
● 拡大解釈と適用の問題
ある聖書箇所を、それが書かれた一世紀の状況と全く異質な、現代の文脈に適用させることは許されるのか。たとえば「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません」(Ⅱコリント六・一四)、これは伝統的に、キリスト者と未信者の結婚を禁じるみことばとして解釈されてきました。しかし、当時「くびき」が結婚の比喩として用いられることはまれで、続く文脈にもそうした類の結婚を禁じる意味はありません。元々のテキストが何を禁じているのか確定しがたいのですが、おそらく偶像宗教の祭りに参加することへの禁止でしょう(Ⅰコリント一○・一四―二二参照)。比較可能な状況と事項がある聖書テキストのうちに存在し、その詳細が我々の状況と類似しているとき、我々への神のことばは、テキストの元々の意図に限定されるべきである、この原則に照らすならどうでしょうか。「不信者とのつり合わぬくびき」が何を意味するのか、文脈を含めて確定できないこの聖書テキストを、信者と不信者の結婚の是非にまで拡大して適用することには無理がある、これが結論です。「そのときそこで」を釈義できちんと解明すれば、今日の状況にそれが適用可能か否かは、おのずと明らかになるはず。前述の解釈は、結論を言いたいがため聖書テキストを援用した典型です。● 特殊性の問題
今日では相当する状況がない、一世紀地中海世界特有の問題を扱う箇所はいかがいたしましょう。たとえばコリント人への手紙第一、八章と一○章で、パウロは偶像にささげた肉の問題を扱っています。当時のコリントでは、アポロ神殿にささげた動物の肉が隣接する市場で売られていましたが、それをキリスト者が食べて汚れることはないか、コリント教会内で問題になっていたのです。パウロは、食べること自体何の問題もないが、良心の弱い信者があなたの行為でつまずくようなら食べるのをやめなさいと勧めます。今日の日本では偶像にささげた肉が一般の市場に出回ることなどありませんが、ここでパウロが問うのは、大切な本質的事柄とそうでない事柄をいかに区別し、キリスト者の自由を行使するかです。コリント教会と同じ状況でなくても、今日のキリスト者は、服装や嗜好品や娯楽などの扱いをどんな枠とバランスで考えるべきか、そこに適用可能でしょう(Ⅰコリント一○・三一、ガラテヤ五・一三参照)。
● 文化的相対性と普遍的規範性
聖書は歴史的特殊性の中に与えられた永遠の神のみことば。新約書簡は一世紀の特別な状況記録であり、その時代の言語と文化に条件づけられ、当時の教会の特殊状況に向けて語られています。こうした文化的相対性をどの程度意識し、どのようにしてそこに普遍的規範性を見いだしていくか、以下のガイドラインが役立つでしょう。○ 聖書メッセージの中心的核心と周辺的事柄を区別する
たとえば、キリストの死と復活による贖いの教理(ローマ四・二五)は中心的核心ですが、女性のかぶりもの(Ⅰコリント一一・五)や聖なる口づけの習慣(一六・二○)は周辺的事柄です。
○ 新約聖書が本質的道徳と見なす事柄とそれ以外とを区別する
コリント人への手紙第一、六章九―一○節にある罪のリストは、あらゆる文化を超えて何が悪い行為かを教える道徳的箇所。しかし前述の偶像にささげた肉を食べることそれ自体は道徳に無関係で、自由の乱用や愛の欠如において初めて道徳的問題となります。
○ 一様で終始一貫した証言のある事柄と、相違のある事柄に注意する
キリスト者の基本道徳や応答としての愛、報復しない個人倫理、争い・憎しみ・殺人・盗み・同性愛・酩酊・不品行などを悪とすること、これらは新約聖書に一貫しています。しかし、教会における女性の働き(ローマ一六・一―二の女性執事フィベと対照したⅠテモテ二・一二)、ローマに対する政治的評価(ローマ一三・一―五と対照した黙示録一三―一八章)などは、そこまで証言が一様ではありません。
○ 原則と特殊な適用とを区別する
コリント人への手紙第一、一一章二―一六節でパウロは創造の秩序を示し、礼拝の際に慣習を破って神の栄光から注意をそらすようなことをすべきでないとの原則を示します。これは現代の教会でもそのまま原則になり得るでしょう(あまりに場違いな服装を避けることなど)。しかし、女性のかぶりものや髪の長さについては特殊な適用に属するゆえ、相対的にとらえるべきです。