新ガイドライン──キリスト者の視点から 沖縄から平和を求めて
――苦難の歴史を背負う沖縄だからこそ、平和について語ることができる

昭和館
饒平名(よへな)長秀
沖縄バプテスト連盟 神愛教会牧師

 国の根幹を揺るがし、性格を根本的に変更するような重大な法、新ガイドライン関連法案が十分な論議を経ることなく、国民に理解されることもないまま4月27日衆議院を通過し、5月24日に参議院で可決成立した。その自民党と政府のやり方は、まことに奇怪かつ狡猾、あえて言うならあくどい手法ということができる。

 今私たちは、重大な転換点に立っているということができる。特に国土の0.6%にすぎない土地に、米軍専用基地の75%もがひしめき、集中し、おおいかぶさっている沖縄にとっては、全く言葉を失い、呻きにも等しい思いに満たされている。日本は端的にいって、戦争のできる国、軍事国家としての決定的とも言える一歩を踏み出したと言うことができるのである。

 沖縄は暴力的に日本近代国民国家に組み入れられ(「琉球処分」1872~1879年)て以来、常に日本防衛あるいはアジア侵略の軍事的拠点として位置づけられ、徹底的に利用しつくされてきた。その最たるもの、極めつけが、第二次大戦末期の本土防衛の防波堤そして「捨て石」としての沖縄戦の惨劇であった。沖縄は国内唯一の地上戦において、完膚なきまでに破壊され、ほとんど一物も残らないほどの瓦礫の山と化してしまった。敗戦後は27年に及ぶ軍事植民地の圧制下に苦難の時期を歩まされ、平和と自由と人権そして民族としてのアイデンティティーの回復を求めて、平和憲法の日本に「復帰」した。あれから今年でちょうど27年。並ぶ期間である。しかし、沖縄人は果たしてその目的を達し、幸せになれただろうか。

 「それぞれの27年を特徴づけて比較しようとすれば、沖縄の米軍基地の存在は日米安保体制を返還(復帰)前は『外』から、返還後は『内』から支えてきた」(沖縄タイムス・1999年5月1日)と言われるように、戦争の危機と基地の重圧に何ら変化はなかった。ガイドライン関連法が想定しているのは「有事」(「戦時」と言える部分も含んで使用)である。その対となる言葉に「平時」がある。今の日本本土は平時にあると言える。それに対して沖縄では「有事」が恒常的に存在している。沖縄は常時、戦時体制にあると言って過言ではない。その意味でガイドライン関連法の成立により沖縄においては「周辺事態」が恒常的になり、一層の基地の重圧と戦争の危険が身近なものとなる。それだけではない「内なるガイドライン」と言われる「組織的犯罪対策法案」(別名、盗聴法。6月1日衆院可決)とともに「地方分権整備一括法案」の中で「一括」の巧妙な網を被せられ「米軍用地特措法再改定案」がほとんど審議されることもなく6月11日可決された。これは実質的には沖縄のみを対象にした法律で米軍用地に関する限り、総理大臣の一存で、私有地を簡単に取り上げることができるという、憲法で保障された財産権(憲法第29条)侵害の明らかな法律である。

 以上のように今や日本という国はその根幹が腐ってきており、法治国家の名に値しない無法国家となりつつある。

 2000年7月に予定されているサミット(主要国首脳会議)開催地も意外と思われる仕方で沖縄に決定した。しかしこの決定を沖縄県民は必ずしも手放しで歓迎しているわけではない。それは軍事国家へ向けての基地の再編強化(普天間ヘリ基地・那覇軍港の県内移転等)のための懐柔策であることは、目に見えており、その背後に見え隠れする「鎧」はサミット後にその正体を顕してくるであろう。

 以上のような日本の絶望的とも言える状況の中で、多くの日本人(市民)は、キリスト者を含めて関心が薄く知識に乏しく、時として漂流するこの国のゆく方について無知に近い状態にある。豊かさと安逸の中で惰眠をむさぼり、(平和ボケ)堕落し、気付いた時には戦前の国家総動員法にも等しい周辺事態法にからめとられ、身動きもとれず、戦争へと破滅の道程をたどらされるということになりかねない。知識の不足、だまされたなどといってはすまされない。ここに至って無関心・無知は罪悪といって過言ではない。

 状況が絶望的であるから非力だからと言ってあきらめるわけにはいかない。私たちは主の前に立ち、言い開きのできる生を生きねばならない。主は「あの時あなたはどこにいたのか。何を語り、何をなしたのか」と問われるであろう。

 去る4月24日、キリスト者有志によって、ガイドライン反対のデモ行進を決行した。私たち沖縄のキリスト者は、今日も明日も神の正義と平和のプラカードの下、闇の力との戦いに前進していく覚悟である。このことこそが、今まさに教会に求められている緊急のかつ重大な使命と確信させられている。