新約聖書よもやま裏話 第1回 「こんな小さな……」本文研究はじめの一歩!

伊藤明生
東京基督教大学教授

伊藤明生

一番古い新約聖書

 今、私の手元には、いえ正確には私の手元のパソコンモニターには、世界で一番古いとされる新約聖書の断片が映し出されている(http://rylibweb.man.ac.uk/data1/dg/text/fragment.htm)。

 大きさはわずか8.9センチ×5.8センチで、手のひらに十分収まる大きさである。エジプトの砂の中に埋もれていたのが発見されたが、現在は英国マンチェスター大学ジョン・ライランズ図書館に所蔵されている。ヨハネ福音書の一部(厳密には表が18章31節から33節、裏が18章37節から38節)である。そして、紀元二世紀のもの、と専門家たちは結論している。

 何とも言えない古代へのロマンを感じる。手に取って見る訳には行かないが、これほど鮮明な画像で、千八百年も前の新約聖書の一部を見ることができるとは感動ものである! 思わずドキドキしてしまう。実物を見るためには、少々煩雑な手続きが必要ではあるが。書写する人

コピーがなかった時代

 ヨハネがいつごろ、どこで福音書を執筆したか、正確にわからない。一世紀の後半、紀元八〇年ごろなどと学者たちは言うが、執筆場所は小アジアのエペソあたりか。

 パソコンもコピー機も印刷機械もまだなかった時代のこと。もしかすると、秘書がいて、口述筆記したかもしれないが、手書きであったことは間違いない。

 ヨハネは、福音書を書くに際して、当時地中海の東半分で広く使用されていたギリシャ語を用いた。人々は手で書き、その後ひたすら書き写すしかなかった。

 今の紙と比べると、表面がざらざらしたパピルス紙が紙代わり。パピルスとはエジプトのナイル川河口の沼地などに生育した植物で、二メートルぐらいにまで成長した。その植物の茎を切り取り、開いた上で二枚を繊維が直角に交錯するように重ねて圧縮して乾かし、表面を滑らかにしたものがパピルス紙である。

 動物の皮をなめして作製した羊皮紙(羊の皮とは限らなかった!)も、紙代わりとなった。経済的な理由もあり、パピルス紙でも羊皮紙でも表と裏の両面を使用した。

 そして、パピルス紙や羊皮紙から、巻物または、綴じ本(コーデックス)が作られた。新約聖書を書き写すのには、綴じ本が用いられることが多かった。綴じ本とは江戸時代の本のようなもので、ルーズリーフの古代版である。

 巻物も綴じ本も、作製に手間暇を要したこともあり、決して安価なものではなかった。しかも現代の書籍のようにコンパクトではなく、かなりかさばり、持ち運びは楽ではなかった。

 書く道具としては、割り箸の先を尖らせたような代物が使用された。インクはと言えば、ススとゴムとを水に溶かしたものが使用されていた。

福音書の「出版」

 印刷機械がなかったので、福音書が完成したあと、手書きで写しとる作業が必要であった。書き写す作業は書写生(または写字生)の仕事であった。書写生たちは手書きで書き写して写本を作成した。

 写本が完成した時点で書写生たちは著者であるヨハネに確認した上で、「出版」された。初版が何部か定かではない。ある程度の部数が書き写されたと思われるが、何千部、何万部というわけにはいかなかった。

 そして、方々の教会に運ばれて、回覧され、各々の教会で書写生がいれば、また書き写されたものと思われる。

写本の発見

 そのように書き写した写本をキリスト教徒たちは重宝した。キリスト教迫害・弾圧の際には、聖書の写本は禁書・焚書処分になり、紛失したり、破棄されたりした。(まだ砂の中深くに埋もれたままの写本があるかもしれない。)そういう状況でかろうじてヨハネ福音書出版後、百年ほど経ったころのこの小さな断片が見つかった。土に埋もれて腐って消滅しないためには、ある一定の自然環境が必須であった。千八百年も古い写本が見つかることはたいへんな「大事件」である。

書写室で

 昔は、本を書いても金もうけにはならなかった。執筆した文章を大量に印刷して、一斉に書店で販売することができなかった上、買い求める読者もあまりいなかったのである。むしろ本作成のためにだれかが出資することのほうが必要であった。

 口述筆記することは一般的であった。書いた(・口述筆記させた)ものをある程度の部数を作成して著者が内容を確認した上で、「出版」された。当代の学者たちは、図書館(・蔵書)を所有していたが、図書館に不可欠な施設は書写室であった。

 そして、司書ではなく、書写生たちがせっせと働いた。教会にも、中世の修道院などにも書写室は必須の施設であり、修道僧などが聖書の書写に励んでいたのだ。