新約聖書よもやま裏話 第23回 神のみわざが・・・
病める者、障碍や弱さを抱えた者たち

伊藤明生
東京基督教大学教授

伊藤明生

「おいでになるはずのお方」

 安息日にナザレの会堂に出かけたイエスは、イザヤ書の巻物から朗読した。

 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ四・一八、一九)

 そして朗読の後、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」(二一節)と宣言した。

 一方、囚われの身となったバプテスマのヨハネがイエスに使いを送って尋ねた。イエス自身が「おいでになるはずの方」、つまりユダヤ人たちが待ち望んでいたメシヤかどうか、を。

 イエスはイザヤ書六一章の冒頭などに基づいて答えている。「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」。また、自分たちで見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えるように、と。

 上記の二つの記述をみると、弱さを抱えた人々とかかわることが、イエスの地上でなさった働きの重要な部分を占めていたことがわかってくる。

 このような奇跡こそが、イエスが「おいでになるはずの方」であるしるしであった。イザヤの預言が実現し、イエスご自身が預言されたメシヤであることの証拠だとさえ主張されている。

 マタイの福音書では有名なイザヤ書五三章が引用されている。「これ(癒しの奇跡)は、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った』」(八・一七)と。

イエスの関心

 生まれながらの盲人を巡るヨハネの福音書九章の記事は、示唆に富んでいる。生まれながらの盲人を見て、弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と。

 弟子たちの一番の関心は盲人本人ではなかった。彼を気遣ったり、気の毒に思ったりしたのではなく、盲目になった原因・理由に関心があった。彼らは、いわば神学論争を展開したかったようだ。神学論争とは言わないまでも、何か不幸が身にふりかかると、どうして、なぜ、とそこからのがれることを考えるのが人間の常かもしれない。

 イエスは弟子たちの問いにきっぱり答えている。「本人でも親でもない。だれかが罪を犯したからではなく、神のわざがこの人に現れるためだ」と。

 この章全体で見え隠れしていることは、盲目で生まれついた人に一貫して関心を寄せているのは、イエスだけということである。安息日規程に拘泥したパリサイ人たちは言うに及ばず、弟子たちでさえ神学論争に関心があった。何も神学が悪いと言うつもりはない。神学論争だって重要だ。でも、目前に盲目の人がいるときどうするか、まず何を優先するべきか問われるべきであろう。

父なる神を示して

 イエスは地上にいる間、悪霊を追い出し、多くの病人を癒し、身体的な弱さをともに担った方である。考えてみると、当時のユダヤ社会にいた同じように病をかかえた人々の全体数からすれば、イエスが実際にかかわることができたのはほんの一握りの人にすぎない。イエスであってさえも、ユダヤ、パレスチナのすべての病人、弱さを覚えていたすべての人を苦しみから「救い出す」ことはできなかった。そもそもそのような目的で、イエスは地上に来られたのではなかった!

 イエスは天上の栄光を一時的であれ捨て、人として地上に来て、人々の間で生活された。そして、ほんのわずかの人々ではあるが、病人を癒し、弱さを抱えた者を強め、障碍のある者からそれを取り除かれた。

 実は、イエスは、地上の生涯をとおして、父なる神がどのようなお方であるかを示したのである。

神の愛

 イエスはマタイの福音書八章では、イザヤ書五三章を、マタイ一二章ではイザヤ書四二章を引用して、その癒しのみわざの意義を説明されている。

 癒しのみわざには、病気などに象徴される痛みや悲しみに対する勝利が表され、それ以上に、神の憐れみと愛が強調されているのである。

 現代の日本では、医学の発達の結果、人体の構造、病気の原因が解明されてきた。また障碍のある方々に対する社会福祉も発達した。それでも、イエスが身をもって示された神の愛は、昔も今も変わらず不可欠なものである。心の傷をも癒す神の愛が、奇跡で現されているのだ。