新約聖書よもやま裏話 第24回 いったい何人のヘロデが・・・
ヘロデ一族
伊藤明生
東京基督教大学教授
「ヘロデ」と聞くと、降誕劇に登場するヘロデをだれもが連想することだろう。ベツレヘムの幼子を虐殺した、しばしば「ヘロデ大王」と呼ばれる人物。ところが、新約聖書内には、ほかにもヘロデと称される人物を見ることができる。
ヘロデ大王
ヘロデ大王は民族的にはイドマヤ人(旧約聖書で言うエドム人)で、ユダヤ教に改宗したイドマヤの貴族出身である。ローマの後押しでユダヤの王の地位に即くことができた。まずヘロデの父アンティパテルがユダヤ政治の舞台に登場する。マカベヤ一族、別名ハスモン王朝の晩年、ローマの支配の手がパレスチナにおよぼうとしていた頃である。アンティパテルはヘロデをガリラヤの知事に任命したが、「強盗」などと称される反乱分子掃討作戦で名を挙げた。
アンティパテルが暗殺され、東方から攻め込んだパルティヤ軍とマカベヤ一族の末裔マッタティアス・アンティゴノスとがヘロデとローマ軍をユダヤから排除した。ヘロデはローマに逃れたが、ローマの元老院によってユダヤの王に任命された。まだパレスチナの土地一片も掌中に収める前であったが。ヘロデは、その後ユダヤに立ち帰り、ローマの軍事力を行使して敵勢力を席捲した。この後三十三年間も王としてユダヤを統治した。
ヘロデ大王の政治手腕
一言でヘロデ大王は狡猾な政治家である。ヘロデ王のしたたかさは、アクティウム沖海戦後にうまく立ち回ったことに典型的に見られる。ヘロデが加担したアントニウスはオクタヴィアヌスに打ち負かされたが、その後オクタヴィアヌスにみごとに取り入り、地位を保証してもらうことに成功している。ヘロデ大王は常に自らの身の安全に気を配った。政略結婚を活用したり、信頼できる味方に重要ポストをあてがったりした。秘密警察も駆使し、ヘロデや治世の悪口を言う者の多くが政治犯として逮捕された。ヘロデ大王は建築事業に熱心であった。戦争などで痛んだエルサレムの神殿修復工事に積極的に取り組み、「ヘロデの神殿」とさえ称された。神殿修復工事のために、エルサレム周辺に手工業者、職人などが集まり、経済効果もあったようだ。そのほかにもヘロディウム、マサダなど大建築にいそしんだ。最近長年の考古学的調査の結果、ヘロディウムにヘロデ大王の墓が発見され、ちょっとしたニュースとなった。
ヘロデ大王の王宮は一夫多妻の悲劇の舞台となった。ヘロデ王には、多くの妻たちが産んだたくさんの息子がいた。母親にそそのかされて息子たちは異母兄弟を中傷し、晩年、ヘロデ大王は疑心暗鬼、猜疑心の塊と化していた。有能な息子たちは反逆罪のかどで処刑されていた。ベツレヘムの幼子虐殺(マタイ二章)は聖書外には記録されていないが、晩年の彼らしい行為である。ヘロデ王は紀元前四年に死ぬが、多数の「政治犯」が身柄拘束中であった。
ローマの直轄統治領に
ヘロデ大王死後、ユダヤを統治したのは息子のひとりアケラオであったが、王の称号は許されなかった。アケラオの統治は長続きしなかった。父親の統治形態を維持しようとしたが、父親ほど有能でなく、ほどなく「廃位」されて追放された。こうして、ユダヤはローマ総督が支配する直轄統治領となった。ユダヤ人の宗教感情などをあまり理解しない無能な総督たちが、ユダヤ人を逆なですることを繰り返した。総督たちの失政の結果、ユダヤ人のローマに対する関係は急激に悪化し、六六年の反乱をもたらした。
ヘロデ・アンティパス
ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスはバプテスマのヨハネを処刑したことで有名。兄弟のヘロデ・ピリポの妻ヘロデヤと略奪結婚し、そのことを非難したバプテスマのヨハネの身柄を拘束した。その後、ヘロデヤの娘サロメがアンティパスの誕生日の祝いの席で踊った。たいそうアンティパスの気に入り、何でも所望するものを褒美にやる、王国の半分でも、とほろ酔い加減で口にする。母親が娘をそそのかして「盆にのせたヨハネの首」を所望させた。
イエスの公生涯時代にガリラヤを統治していたのは、このヘロデ・アンティパスであり、「国主ヘロデ」の地位は四分割領主であった。