新約聖書よもやま裏話 第26回 メシアを待って
旧約聖書と新約聖書の狭間(2)
伊藤明生
東京基督教大学教授
旧約時代と新約時代の狭間四百年間の第二神殿期時代、ユダヤ民族はヘレニズム文化に傾倒した人と伝統的なユダヤ文化・遺産を大切にする人とに大きく二分した。
マカベヤ一族に代表される反乱勢力はユダヤの伝統を重んじた人々であった。反乱当初には安息日規程を文字どおりに死守した。その結果、安息日に虐殺されるという憂き目に会い、以降、攻められたときには武器を持って自衛のために闘うことにした。
シリヤの統治に協力した人々は重要なポストにありつけたが、命を狙われる危険が伴った。この時期に大祭司となった者たちは多かれ少なかれヘレニズム文化に傾倒していた。異文化理解、異文化受容とは一筋縄に行かないもので、紆余曲折が伴った。
亡国の民のメシア待望
マカベヤ一族、ハスモン王家にも問題がなかったわけではない。マカベヤ一族の指導者が王位と大祭司職を兼ねたことで、激しい反発があった。王位と大祭司職とを兼務するとは、メシヤと自認することを意味した。「メシヤ預言」は旧約聖書のあちこちに見受けられるが、ユダヤ民族が亡国の民となってからはメシヤ待望が明確化した。ユダヤ民族は、万物の創造者であり支配者なる神の民であるはずなのに、異教の国々の支配され苦しむのはおかしいという発想に端を発する。必ずや神は救いの手を差し伸べられるに違いない、との信仰にほかならない。
メシヤ(またはマシーアッハ)とはヘブル語で「油注がれた者」を意味する。ギリシャ語に訳すと、キリスト(あるいはクリストス)である。旧約聖書の時代には、王、預言者、祭司という職務に任職される際に油注ぎが実施された。油注ぎは神に献げられ、聖められることを意味した。
亡国の民を救い出すために神が遣わされる存在を、ユダヤ人たちはいつしかメシヤと呼ぶようになった。ダビデの王座に即く者が絶えることはないとの約束から「ダビデの子」とも称された。マラキ書の最後の言葉から預言者「エリヤ」と呼ばれることもあった。いずれにしても従来の王、預言者、祭司を超える油注がれる者が旧約聖書以降の外典・偽典と呼ばれる文書には描かれている。
マカベヤ一族のひとりアリストブロスが王位と大祭司職とを兼ねた際には、メシヤを自称する者として、反対の声が上がった。
ナザレのイエスが「ダビデの子」、「アブラハムの子」であるとは、メシヤであることを意味した。ダビデの王座に即く者であるのみならず、諸国民が祝福される基となったからである。「公生涯」を開始されるに際してイエスは文字どおりに油を注がれることはなかったが、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた後に、鳩のように聖霊が降られた。油という象徴ではなく、聖め分かたれて聖霊が宿るメシヤとして公現された。
ユダヤ民族の反応
ユダヤ民族の中で熱心党と称される人々は、いわば右翼の過激派、原理主義者であるが、武器を持ち蜂起し異教徒の支配者に反乱を起こすならば、我らの神は立ち上がり、助けてくださるに違いないと信じていた。パリサイ派は、神の民に聖さが足らないのが一番問題だとした。そこで、旧約聖書で祭司が神殿で奉仕する際に求められている聖さを日常生活で実践することを提唱して実践した。パリサイ派は基本的には信徒運動である。
当時のユダヤ人世界で「教職者」とも言うべき存在は、祭司たちである。彼らの多くはサドカイ派に属したようだ。サドカイ派の名前は、大祭司ザドクに由来するが、ローマと結び付いていたようで、日和見主義的であった。
死海の畔で発見された死海写本を残したと思しきエッセネ派のクムラン共同体が形成され繁栄したのは、ちょうどハスモン家の興隆時期と重なっている。平気で大祭司職にも就いたハスモン家に反旗を翻した彼らは、死海の畔の荒野に移り住み、隠遁生活を送った。パリサイ派以上に聖い生活に熱心であったが、紀元六十六年ころ反乱鎮圧のために攻め込んできたローマ軍に追い散らされてしまった。
旧約聖書の律法の教師エズラに律法学者の起源を見ることができる。歴史的事実はともかく、エズラを理想としていたことは間違いない。庶民の生活のただ中で生活して民衆に多大な影響を与えた。
マカベヤ一族の行末
ユダ・マカベヤはローマの外交的影響力を駆使して、シリヤからの自治、そして独立を勝ち取ったが、マカベヤ一族の跡目争いが元でローマの介入が本格化した。将軍ポンペイウスが紀元前六十三年エルサレムを占領した。皮肉にも、マカベヤ一族を葬り去ったのは、ローマに後押しされたヘロデであった。東方から勢力を広げてきたパルティアと結託したアンティゴノスをヘロデは打ち破った。とはいえ、イドマヤ人のヘロデ大王は、マカベヤ一族の末裔マリアムネを妻にすることで、「ユダヤ人の王」としての箔を付けた。ヘロデ大王の治世は中間時代の最後に位置付けられる。