新約聖書よもやま裏話 第27回 パウロのコリント伝道
新約聖書のウラ、歴史のオモテ!?
伊藤明生
東京基督教大学教授
コリント伝道
パウロは第二回伝道旅行で、小アジヤから足をのばして、ローマの属州マケドニヤ、アカヤと異邦人世界にまで踏み入った。アテネから南下して州都コリントをパウロは訪れたが、そこでユダヤ人夫婦のアクラとプリスキラに出会った。クラウデオ帝がローマ市からユダヤ人を追放したため、コリントに移り住んでいたのである。彼らは、パウロ同様、天幕作りを生業にしていた。ユダヤ人の追放
ローマの歴史家スエトニウスは『ローマ皇帝伝』の皇帝クラウデオ伝でユダヤ人たちが「クレストゥスの扇動で絶えず騒動を引き起こした」ので、首都ローマから追放した、と書き残している。「クレストゥス」という表現は、「キリスト者」を意味していると思われる。ローマのユダヤ人たちの間でキリスト教信仰をめぐって騒動が起こり、ユダヤ人が追放された。紀元四九年頃のことである。
コリントのユダヤ人たちの間でもパウロの宣教の結果、騒ぎが引き起こされた。パウロは行く先々で、まず、安息日にユダヤ教の会堂の礼拝に参加してキリスト教の福音を語った。会堂には生粋のユダヤ人、ユダヤ教徒だけではなく、ユダヤ教に関心を抱く異邦人たちも集っていた。
パウロが語るキリストの福音は、特に異邦人たちに喜ばれた。パウロの福音によると、異邦人たちも自らの罪を悔い改めてキリストを信じてバプテスマを受けるだけで、神の民の一員となることができた。
当時のユダヤ教は寛容で、教えにも幅があったが、異邦人がユダヤ教に改宗するには割礼を受けたり、律法を守ったり、などと条件があった。
総督ガリオ
ユダヤ人たちは、ユダヤ教に反することを教えているとして、パウロを引っ捕らえて法廷に引き渡したが、総督ガリオはユダヤ人同士の宗教上の内輪もめとしてかかわろうとしなかった。ローマ帝国ではユリウス・カエサル以来の伝統として、ユダヤ教を優遇する特別措置が取られてきた。ユダヤ人たちが、異教のローマ世界で生活するには、あまりにも多くの障害があったからである。
具体的には、個々の町々には守護神がおり、市民たちは守護神にいけにえをささげて、礼拝することが大切な責任であったが、それはユダヤ人にとっては、忌み嫌うべき偶像崇拝にほかならない。というわけで、ユダヤ人たちは、市民であっても異教的な責務からは免除された。
ユダヤ人たちは、パウロが宣べ伝えていることはユダヤ教に反するとして、ユダヤ人優遇措置を侵害するものとして総督に訴えたのであったが、総督ガリオは、そのような優遇措置を盾にして、ユダヤ教内のことに関与することを拒んだのである。
キリスト教を理解するうえで、使徒パウロは避けて通ることができないほど重要な人物である。ところが、生年月日や没年など生涯の詳細は定かではない(主イエスも同様であるが……)。唯一、年代決定が可能と思われるパウロの人生の出来事が、コリント伝道である。
ガリオの碑文
「ガリオの碑文」と俗に呼ばれる断片が十九世紀末にデルフィで発見され、二十世紀初頭に公にされた。使徒の働き一八章によると、パウロがコリントで伝道した当時、アカヤの総督がガリオであった。ガリオが総督の任に就いていた年代がわかれば、パウロのコリント伝道の時期もわかることになる。「ガリオの碑文」は、皇帝クラウデオからデルフィの市民に宛てられた手紙である。デルフィは、古代ギリシャの神託ゆかりの地として有名であった。
ソクラテスという哲学者は、「おまえが一番賢い」との神託にこたえて、自分よりも賢いと思われる人々に議論をふっかけて、結果的には若者を惑わしたとの罪で処刑された。その神託が、やはりデルフィの神託であった。デルフィは、いわば古代ギリシャの心の拠り所であったのである!
碑文の肝腎な箇所は以下のとおりである。
「テベリオ・クラウデオ・カエサル・アウグスト・ゲルマニクス、すなわち大祭司で護民権の十二年目、二十六回皇帝と喝采された祖国の父、五回の執政官、監察官が、デルフィの市民たちに挨拶を送る。……しかし、最近私の友人で総督であるL・ユニウス・ガリオが私に報告してきたところによると、市民の間には窮乏があるという。……」
残念ながら、この碑文の内容から単純にガリオの総督在任期間を確定できわけではない(特に「二十六回皇帝と喝采され」てはいるが難しい)。
詳細は省略するが、いくつかの推定を重ねることで、ガリオが総督であったのは紀元五一~五二年前後との年代が導き出せる。したがって、パウロがコリントで伝道したのは、その前後の時期となる。