新聖書読解術 今年こそ 聖書とともに 主とともに
真実な主への応答として[前半]


関野祐二
聖契神学校校長

 なにやらキザな五七調のタイトルで始まりましたが、それにしても大胆で無謀なことをしたものです。誰がですって? 一大決心をもって、新年を聖書とともに歩もうとしている皆さんではありません。人の歴史の中に、私たちにわかることばで、永遠のみことばを啓示された主なる神が、です。それを人が理解せず、誤解をしたり無視したり、果ては曲解や悪用もしかねないリスクを重々承知のうえで、あえて愚かな私たちに、聖書を誤りなきご自身のみことばとしてゆだねられたのですね。この熱き迫りにどうこたえるか、私たちはおのおのが求められているのです!

☆ 聖書通読開始前夜

 新しい年、聖書通読やディボーションを続けたいと願う人も多いでしょう。長距離レースのスタート前夜は重苦しく、緊張しますね。

 ところで、あなたが今年聖書を新たな決意で読み始める、その動機はなんですか? 聖書を毎日読むことがクリスチャンの義務だから? 読まないと神さまに叱られて、その日一日に祝福が訪れないから? あの人にだけは負けたくないから!? もしそんな動機で新年を歩み出すなら、「主とともに」はまず無理でしょう。

 誤解を恐れずに申し上げるなら、あなたが聖書を読んだ日も、読ま(め)なかった日も、主なる神は変わらずあなたを愛し、導き、助けてくださいます。「読むか読まないか」で、その日の神の祝福レベルを測ろうとする、そんな打算を主はお嫌いです。その主を知る(主を愛し、深い交わりを持つ)ためにこそ、聖書を読むのです。伝わりますか、このからくりと逆転の発想が……。

☆ なぜ続かないのか

 つまり、聖書を読むのが続かないのは、私たちが主なる神を知らないから、いや知ろうとしてこなかったからなのです(ゴメンナサイ)。そんなこと言ったって、聖書を読んでもわからないから知りようがないのだ! だから続けられないのだ! 下降螺旋にはまった怒りの声が聞こえてきそうですね。

 聖書には読み方があります。その方法を「聖書解釈学」などと難しく呼ぶこともありますが、ここは「主の語り口を知る」とでも言い換えましょうか。詳しいことはさておいて、その語り口を少しだけご披露しましょう。これは、筆者が皆さんと同じく、手探りで試行錯誤を繰り返しながら少しずつ体得してきたもので、いわゆる聖書解釈学という学問の受け売りではありませんから念のため……。

☆ 聖書の計は創世記にあり

 「一年の計は元旦にあり」と申しますが、「聖書の計は創世記にあり」、これが筆者の持論です。聖書全巻を貫く世界観・人間観と神のご計画はすべて、凝縮された形でこの初めの書に盛り込まれています。重要な箇所は多々あれど、それに続く聖書を読むうえで特に大切なのが、創世記一二章一―三節の「アブラハム契約」すなわち、「わたし(主なる神)を信頼し、約束の地に移住するなら、わたしはあなたを祝福し、子孫を増やして土地も与え、あなたを通して全世界の民を祝福する」という約束です。

 この約束はアブラハムから始まって旧約聖書を貫き、主イエス・キリストを経て新約聖書に受け継がれ、今ここに生きるキリスト者にも継承されています。主イエスを信じるなら罪赦されて神の子どもになり(ヨハネ一・一二)、神の国を受け継ぐ御国の民とされ、自分を通してその救いが拡大するというわけです(ガラテヤ五章)。主とともに歩む私は世界の祝福の基、この意識は私たちの信仰生活を生き生きと動機づけます。

 そのためにも、まず創世記を丹念に読み進めることです。特に、聖書の世界観が集約された第三章までを慎重に、ていねいに……。そして、「創造」「神のかたち」「地を従えよ」「非常に良かった」「助け手」「必ず死ぬ」「神のようになり、善悪を知る」「あなたは、どこにいるのか」などの重要フレーズを、参考資料(『聖書【注解・索引・チェーン式引照付】』など)も用いながら味わいましょう。そうすれば、聖書の流れと主題を理解する準備が整い、アブラハム契約を適切に定位できます。

☆ 軸を見極め、鍵語を定める

 そこで大切になってくるのが、聖書全巻を読む際の「軸」、全巻を読み解く「鍵語」です。軸は贖いの歴史、これに異論はないでしょう。罪に堕ちた人類をその呪いから解放し、創造主との交わりに連れ戻すため、主はイスラエル民族を育てて救いの計画を徐々に進展させ、主イエスの十字架を経て神の国と神の民をもたらし、新天新地にて贖い(本来あるべき姿への回復)を完成します。私たちもその歴史に参与している神の民、この現実感(リアリティ)が重要でしょう。旧新約を問わず、どの箇所を読む際もこの軸を意識するなら、聖書に現された主の語り口がわかってきます。

 鍵語は人によって異なります。近年、全四巻で邦訳された『キリスト教神学』の著者である米国の神学者エリクソンは、「神の偉大さ」を聖書の中心的モチーフと定めます(第一巻八四頁)。向こうを張るわけではありませんが、筆者は「(選んだ者に対する)神の真実さ」を鍵語として提案します。旧約で「恵み」と訳されることの多いヘブル語「ヘセド」がこれに相当しますが、日本語訳の難しいことばで、永遠の愛、誠実な愛、契約を決して破棄しない真実さを意味するのです。選びの民イスラエルをどこまでも見捨てないその真実とねちっこさ(!)は、主イエスにあって救われた私たちをどこまでも愛し続ける誠実さ、真実さにつながります。アブラハムを選んだ主は、私たちをも選んで十字架による救いの契約を結び、決して見捨てることをしません(Ⅱテモテ二・一三)。